1.1 科学論・科学哲学入門

1.1.1 科学・技術とは何か

報道などで「科学技術」という表現がみられる。科学と技術が緊密な関係にあることや、科学を基礎にした技術という意味合いをもたせるというねらいがあって、このような使われ方をしているのであろう。ここでは、両者の違いを考えながら、それぞれについて簡単に述べておこう。

【科学】この言葉から、メスシリンダやフラスコの並ぶ実験室や電波望遠鏡の据えられた天文台のドームなどの連想が浮かぶという人が多いのではなかろうか。世間一般には、科学を物理学など自然科学の諸分野をさすと受け取られがちである。しかし、言語学や心理学など人文科学(人間科学ともいう)、歴史学や経済学など社会科学の諸分野もそれぞれ科学なのである。では、そもそも、科学とは何か。

科学の起源やその成長は後の節で詳しく紹介されるが、古くから人類は、知的好奇心に駆られて自然界のさまざまな現象に眼を向け、その法則性に気づいて現象の説明原理を探ってきた。その対象は、自然現象に限らない。人間の心性や行為、さらには社会の構造や歴史などにも、なんらかの法則性が潜んでいると考え、その解明をめざしてきたのである。こうして、総合知としての哲学を母胎として個々の科学が相次いで誕生し、それらによって構成される学問体系が19世紀にほぼ形をなすに至ったが、以後も加速的に進展し、それぞれが固有の課題を扱う細かな領域(下位分野)に分化した。しかしながら、このような学問状況では、広範な現象を統一的に理解するという方向性が稀薄になりやすい。20世紀半ば頃から、その修正ともいえる分野連携の動きがみられるようになった。いわゆる学際化がそれである。

「学際化」という表現は、「国際化」に倣ったもので、分野の境界を超えた交流・連携によって学問の新たな領域を開拓しようとする気運を反映している。それは、「人間工学」のようにごく限られた範囲のもの、「行動科学」のように主として社会科学の諸分野間にみられるものから、関与する分野(あるいは領域)の規模がさらに大きくなり、「神経科学」や「認知科学」など広範な分野を包括するようになった。このように、科学は細分化と統合の二つの方向に展開してきたと言える。

【技術】技術はどうか。元来、ヒトという生き物は、身体が大きくもなければ強靭でもない。感覚面、運動面のいずれも格別すぐれているわけではない。それにもかかわらず、人類の今日を築き上げることができたのは、高い知性に支えられた事物・事象の認識(科学)とその制御(技術)によることは明らかである。技術の力で、生命を安全に、生活を快適にするために目的に合致するよう環境制御を試みてきたというわけである。

初期の技術は、たとえ鋭利な石器で硬い骨を砕くとか、梃子を使って重い石を動かすなど、もっぱら運動能力の限界を広げることに向けられたが、その後、望遠鏡や顕微鏡のような、感受能力の制約を超える道具を生み出した。そして20世紀には、遂に、人間の精神機能の一部を代替する機械を開発し普及させ、それによって、私たちは膨大な情報と広範な行動圏を得ることになった。この状況は、それまでの自然進化とは異なる人工進化を促すことになった。

【科学と技術】上に述べたように、科学と技術は共に、人間を人間らしくする営みである。科学は、人間に生来的に具わった好奇心に根ざした知の探究、技術は、飽くなき欲求に促された快適性の追求を、それぞれめざす営みである。前者が真理探究・法則定立型、後者が課題達成・手段確立型の活動にほかならない。

科学も技術も、最初は体験によって学ぶところから発した。この「経験知」は、特定の現象や問題について得られたものであるから、その効力はごく限られたものでしかない。そこで、人類は、それを知性化し、科学智あるいは技術智として蓄積するようになった。この知性化は、「思惟経済原理」(principle of parsimony)の達成にほかならない。もちろん、いったん築いた智も後続の成果によって棄却あるいは修正されうることがあるのは言うまでもない。

ところで、科学・技術の進展を振り返ってみると、科学については、その発展過程で人類に「失望」を与えてきた、と言われる。代表的な例が、コペルニクスの地動説、ダーウィンの進化論、フロイトの深層心理論である。地動説はそれまでの地球中心の宇宙観を打ち崩し、進化論は人間のみを理性的だとみなすヒト-動物二分法の生物観を否定し、深層心理論は意図や行為が自身で気づかない無意識層の働きに支配されているという見解を突きつけ、それぞれ「失望」を与えたとみることができる。人類は、こうした科学の成果の前に、自らの存在を小さく見積もらざるをえなくなり、その尊厳を傷つけられてきたというのである。

他方、技術はというと、情報の迅速化や移動の高速化など、それまで不可能とされてきた環境改変を実現してきた。このような進歩は際限なく膨張する欲望充足社会へと人々を駆り立て、同時に、技術に対し、能力の制約を克服して人間の可能性を拡大するものだとする「信仰」や「幻想」を生み出した。たしかに私たちの生活は以前に比べて便利になったが、この数十年間に加速的に進んだ環境改変がさまざまな負の影響をもたらしていることも事実である。いまこそ、真に「持続可能な」地球環境の保全と人間社会の構築をめざす分野連携の取り組みと、技術社会の在り方をめぐる人間科学・社会科学的な評価が強く求められる。

 

1.1.2 科学論とは何なのか

私たちの社会は「科学」と呼ばれる活動をその内に含んでいる。そして、私たちの社会は「科学」の成果、とりわけ科学技術に大きく依存している。このように科学は、政治や、戦争や、宗教などと同じように、私たちの社会に欠くことのできないものであると同時に、私たちの将来の運命を決するだけの強力なパワーをもったもの、つまり、「無視することのできない活動・現象」となっている。一方で、科学はたいへんに複雑な現象である。それには多くの人々や制度がかかわっているし、長い歴史をもっている。「科学論」とは、こうした興味深いが捉えにくい科学という人間活動を全体として理解し、科学と私たちとの関係をよりよいものにしていくための学問だと言える。

このように広く捉えた「科学論」は、科学がいかに成立し、歴史的に展開してきたかを研究する「科学史」、科学と社会の関係、科学者集団のもつ社会的な性質と科学的知識の関係を探究する「科学社会学」、科学的知識のもつ性質、それを手に入れるための方法、科学的世界像の構造などを研究する「科学哲学」などに分けることができる。この三つは、歴史学、社会学、哲学という異なったルーツをもち、方法論もかなり異なるため、研究者の相互交流もこれまでそれほど盛んではなかった。

しかし、近年になって風向きは変わってきたようだ。たとえば、カントをもじって「科学史なき科学哲学は空虚である。そして科学哲学なき科学史は盲目である」と言われるようになり、三者の交流や共同作業によって、異なる視点を綜合しながら「科学とは何か」という問いに答えようとする動きが出てきている。すでに述べたように、私たちが研究対象にしている「科学という活動」の複雑さ、捉えにくさを考えれば、このように複数のアプローチをとりながら、それを綜合するという方法は望ましいものだと言えるだろう。

本節では、これらのうち特に科学哲学について解説しよう。

 

1.1.3 科学哲学の意義

科学哲学が学問分野として自立してきたのは20世紀になってからである。というわけで、科学哲学は分野としては比較的新しいものだと言えるだろう。しかし、歴史を遡れば、科学と哲学の境界はそれほどはっきりしたものではなかった。デカルト、ライプニッツ、ロックと言えば、近代哲学の大物ということになるだろう。しかし、デカルトやライプニッツはそれぞれ当代一流の物理学者・数学者でもあった。彼らの哲学の少なくとも一部は、自分が推進しつつある新しい科学の方法を正当化するためのものだったと言える。たとえば、デカルトの『省察』における、感覚に対する懐疑や神の存在証明は、「私たちの目に見えたままの自然界はその本当の姿ではなく、自然界の本当の姿を捉えるためには、数理的方法によりその数学的構造を探らなければならない。そして、神は私たちの心と自然界の両方に同じ数学的構造を与えることによって、私たちが自然界の数学的構造を認識することを可能にしたのだ(だから、数理的方法で科学的探究を進めるのがよろしい)」という議論の一部として位置づけることができる。

また、ロックも、現代の意味での科学研究に直接携わったことはないが、自分の哲学的仕事を、当時の王立学会に集まっていた科学者たちの主張する「新しい科学のやり方」つまり実験的方法の優位性を示すための、「科学者の下働き」と考えていた。また、ボイル=シャルルの法則で有名なロバート・ボイルはこの王立学会に属する、ロックとほぼ同時代の化学者だが、実験的方法を正当化するための大量の哲学的考察を書き残している。

新しい科学の分野や方法をスタートさせようとしたとき、あるいは逆に既存の分野が危機に陥ったとき、科学者は好むと好まざるとにかかわらず、科学の方法とは何か、その方法によってなぜ自然について知りうるのか、そしてどこまで知りうるのか、いや、「知る」ことが科学の目的なのだろうか…といった、「哲学的」と言ってよいような問いを自分で考えざるをえないことになる。より現代に近い例を挙げるなら、19世紀末から20世紀初頭にかけて、「数学基礎論(foundations of mathematics)」つまり現在では「数理論理学(mathematical logic)」と呼ばれる、証明論、集合論、帰納的関数論という三本柱からなる分野が生まれようとしたときがそうだろう。デーデキント、フレーゲ、カントール、ラッセル、ヒルベルト、ブラウワーといった数学者たちが、新しい数学を生み出そうとする苦闘の傍らでたくさんの哲学的考察を残した。さらに、20世紀後半になって認知科学が立ち上げられたとき、たとえばフォーダー(Jerry Fodor)といった哲学者が、認知科学研究の自律性と正当性を保証するための論陣を張り「科学者の下働き」の役目を果たした。

哲学と科学とは一見すると対照的な分野に思われる。「文系」の典型と「理系」の典型のように思われているふしもある。たしかに、現在の数理論理学者は哲学的議論に巻き込まれることなく研究を行うことができる。それは、数理論理学が明確な目標と方法をもつ一つの分野として自立したからである。そうなると、科学と哲学の二つは別々の分野に見えるようになる。しかし、いつでもそうだったわけではない。

さて、そうすると科学哲学という独立の分野がなぜあるのだろうか。それはなぜ必要なのだろうか。二つの理由を挙げることができる。

(1)新しい科学を正当化したり基礎づけたりする仕事の他に、哲学的思考にはもう一つの役割がある。それは、科学を解釈するという仕事である。この仕事は、科学のある分野が軌道に乗って、その分野の当事者が哲学的議論を気にせずに研究を行えるようになったとしても残る仕事である。たとえば、脳科学で明らかにされてきたことがらと、心理学で明らかになってきたこととの間にはどのような関係があるのだろうか。後者の話はすべて前者の話に還元されてしまうのだろうか。科学的な世界像と日常的な世界像とはどんな関係にあるのだろうか。両者が食い違ったとき、後者は間違っているのだろうか。それとも両者は異なるレベルで共存する(どちらも正しい、と言える)のだろうか。…といった問題である。

(2)これまで、多くの科学者が科学についてすぐれた哲学的考察を残してきた。科学と哲学の分業が進んだように見える19世紀以降に限っても、ボルツマン、マッハ、デュエム、ポアンカレ、坂田昌一、朝永振一郎などの名前がすぐに挙がる。これらは、実体験と学識に裏打ちされた貴重な洞察に満ちている。しかし、残念なことにこうした「科学者自身による科学哲学」は、このままでは局所的で単発的なものに終わってしまう。科学についてのさまざまな洞察が蓄積され、吟味され、整理、比較され、さらに展開されるためのフォーラムが必要だ。科学哲学という分野があるのはこのためである。

 

1.1.4 科学哲学の重要問題と代表的な立場

さて、それでは科学哲学は科学について何をどのように問題にしようとしてきたのだろうか。その最も重要な問題について解説しよう。一般に、探究というものは、そこに「謎」があるから行われる。科学哲学にとっては、科学が成立しているということそのものが解くべき「謎」ということになるだろう。どういうことか。哲学にとって科学がとりわけ興味深い対象であるのは、科学が次のような特質を備えているように見えるからだ。

(1)科学は、実験や観察によって、私たちがじかに見たり、触ったり、聞いたりできる事柄(哲学では「経験」と言う)からスタートする。あるいは、そうした経験可能なものにたえず立ち戻って、それに基づこうとしている。どんなに立派な理論でも、実験で確かめられなくてはダメだ、実験や観察で検証・反証できないようなものは科学的仮説ではない、としばしば言われている。

(2)しかし科学は、私たちが直接に経験した事柄を収集し、記述することだけをやっているのではない。科学は「私たちが直接に経験できないことがら」について何ごとかを主張する。たとえば、小さすぎて直接には見えないミクロな対象、遠い過去に起きた出来事、遠すぎて直接には見えない対象、じかに見るということがそもそも意味をなさない抽象的なメカニズムや構造などについて科学は語る。

つまり、科学は、直接経験できるものに基づいて世界の直接経験を超えた部分について何事かを主張する営みだと言える。哲学では、ここに現れた「直接経験できるもの」を「現象(phenomenon)」と呼び、「直接経験を超えた部分」を「理論(theory)」と呼んできた。

(3)科学は、世界の直接経験を超えた部分について語ることによって、世界の目に見える部分について私たちが経験することがらについて「説明」と「予測」を与える。万有引力という目に見えない力を想定することで、目に見える天体の規則正しい運動を説明し、それが10年後にはどうなっているかを予測する。

しかし、ここまでだったら、科学の専売特許ではないことに注意しよう。さまざまな宗教的世界観はまさに、私たちのみることのできないものによってこの世界の秩序を説明しようとするし、疑似科学、たとえば占星術も、直接経験を超えたもの(天球とか、宮とか、星からの人間活動への影響力とか)を想定することで、さまざまな現象を説明したり、ひとの運命を予測したりする。これらは、とても精妙でよくできた知的伝統となっている。

(4)しかし、科学による「目に見えないものの想定による目に見えるものの説明と予測」、そしてそれにもとづく技術的応用は、他の知的伝統のそれと比べて著しく成功しているように思われる。占星術では人類を月に送り届けることはできなかったろうし、心霊パワーや透視能力を利用した通信技術はいまだに実用化されていない。

科学のきわだった成功(に見えるもの)はどのように説明されるだろうか。それは、次のようなものになりそうだ。科学は、他の知的伝統における探究活動にはない優れた「方法」をもっており、その方法のおかげで、科学的知識は他の知識に比べてより信頼できるものになっている(「認識論的にみてすぐれている」という言い方がされる)。そのため、説明、予測、応用において好成績を挙げることができるのだ、という具合である。

以上の大づかみの科学イメージから、次のような科学哲学上の問題を取り出すことができる。

(a)科学を他の知的伝統から区別する「科学ならではの方法」なるものが存在するのだろうか。存在するとしたらそれはどんなものだろうか。そして、その方法は他の知的伝統の方法とは異なって、より合理的で、真理に近づくことのできるようなものだと言えるのだろうか。

(b)科学が「世界の直接経験を超えた部分」について語っている事柄をどのように理解するべきだろうか。それを文字通りに捉えてよいのだろうか。つまり、「目には見えないが、本当はこの世界には電子というものがあって、それはしかじかの性質をもっている」ということを科学は主張していると考えるべきなのか、それとも電子なるものの想定は、目に見える現象をうまく説明するためのフィクション、あるいは予測の道具と考えるべきなのだろうか。そもそも、科学の目的は、この世の現象の背後にある「目に見えないもの」がどうなっているかを言い当てることにある、と言ってよいのだろうか。

(a)は、科学的方法とは何か、その方法によって私たちはどこまで知りうるのか、という問いを含んでおり、科学についての認識論的問題と言ってよいだろう。(b)は、科学の言明が、この世に何があるということにコミットしているか、現象だけか、それともそれを超えた理論的対象も存在すると言っているのか、という問いであり、科学についての存在論的問題と呼ぶことができる。科学哲学は、この二つの大きな問いをめぐって議論を続けてきた。もちろん、これらの問いは、そのまま答えるにはあまりにも大きな問いである。したがって、それをいくつものサブ問題に分割して答を出そうとしてきたわけだけれども。

こうした問題に取り組む際に哲学者が心がけていることは、問いに対する一つの答に固執する前に、考えられる限りのさまざまな解答のレパートリーを拡げておくことである。したがって、一見、ひじょうに極端な立場が主張されているようにみえることになる。しかし、いったんは極端な立場を考えて、その帰結を突き詰めておくことは、とても重要なのである。

【合理主義vs.相対主義】

(a)の問いに対して、合理主義と呼ばれる立場は次のように答える。「科学の方法」というものを私たちは取り出して定式化することができる。その方法は、それによって確かめることのできた仮説を信じるに足るものにする根拠を与えるものであって、つまり「合理的」なものである。科学の方法の中には、対立する複数の仮説があったときに、実験や観察に照らしてどの仮説を選んだらよいかを決めるための基準(合理性基準)が含まれており、この基準に照らして、仮説をふるいにかけてきた結果、科学は累積的に進歩してきた。このような合理的な方法をもっているという点で科学は、他の知的伝統と異なる。

こうした考え方に基づいて、多くの哲学者が「科学の方法」の中身を明らかにし、それを用いることが合理的であることを示そうと努力してきた。これに対し、次のように主張する人たちもいる。彼らの主張は「相対主義」と呼ばれる。

これが「科学の方法」だと言えるようなものを一揃い取り出すことはできそうにない。なぜなら、トマス・クーン(科学史家・科学哲学者)の言うように、科学のある分野のパラダイム(科学者共同体が暗黙の内にもっている研究の枠組)は、時として、大きく不連続に変わること(科学革命)があるからだ。パラダイムの中には、基本的な理論的仮定、基本法則などの他に、研究の進め方や何をもって科学のまともな研究とみなすかという基準までが含まれる。こんなものまで含めて変化してしまうならば、歴史を貫いてずっと存在している「科学の方法」はなさそうだ。何が合理的かという基準そのものが変化するのだから、私たちが過去の理論をみて、今の理論の方がすぐれていると判断したり、科学以外のやり方をみて、科学のやり方の方がすぐれていると判断したりするとしても、それは今の私たちの合理性基準からみればそうであるにすぎない。複数の理論、世界観、知的伝統を比べて、公平にどれが合理的であるかに白黒をつけることのできる基準は存在しない。

【科学的実在論vs.さまざまなバージョンの反実在論】

(b)の問いに次のように答える立場を「科学的実在論」と言う。科学が「世界の直接経験を超えた部分」について語っている事柄を文字通りに解釈した上で、それを近似的に真であると考えるだけの根拠を私たちはもっている。つまり、この世界には本当に電子というものがあって、それが電子に関する理論の述べているような性質をもっている、と考えることは合理的である。科学的実在論者がこの主張の根拠にするのは、「奇跡論法」と呼ばれる考え方である。つまり、電子が実在して、それが理論の主張しているとおりの性質をもっていると考えないと、実験結果がいつ、どこで、誰がやってもほぼ同じであるとか、電子を利用した技術が開発でき、おおむね思った通りに使えているというような「科学の成功」が説明つかない奇跡になってしまうではないか、というものだ。

哲学には、「経験主義」と呼ばれる伝統がある。その最も弱い主張は、私たちがこの世界について主張するどんな事柄も最終的には、私たちの経験、つまり実験と観察によって白黒をつけるべきだ(ことができる)というものだ。これには大方の科学者の賛同を得るだろう。しかし、経験主義の主張はこれにとどまらない。もう少し強めると、第一義的に意味のある主張は経験についての主張なのであり、経験を超えた理論的要素についての主張は、有意味であるためにはすべて経験についての主張に翻訳できなくてはならない(つまり、理論的要素についての主張はそれ自体では意味をもたない)という主張になる。さらに強めると、この世界に存在すると認めてよいものは色や形や手触りなどの感覚(経験に直接与えられたもの)だけであり、それを超えた物体であるとか、ましてや電子などの理論的対象は、こうした感覚の現れに見られる規則性を説明するための虚構にすぎない、という実証主義と呼ばれる主張になる。こうした経験主義的立場は、19世紀の末にひじょうに盛んになった。たとえば、エルンスト・マッハのような物理学者もかなり極端な実証主義を唱えていた。科学者ならみな実在論者であるとは限らないのである。

科学哲学もこうした経験主義の影響を強く受けているので、さまざまな形での反実在論が提案されてきた。(1)電子のような理論的対象について語る文はすべて、観察についての主張に意味を変えずに翻訳できる(還元主義)。(2)電子のような理論的対象は、目に見える現象をうまく説明するためのフィクション、あるいは予測の道具であり、「電子」という語は指すものをもたない無意味な記号である(虚構主義・道具主義)。(3)科学の目的は、実在論者が主張するような、現象の背後にある目に見えない世界の秩序がどうなっているかを言い当てることにあるのではなく、理論的対象を仮に想定して、できるだけ多くの観察された現象をそこから導き出すことにある。つまり、科学の目的は真理ではなく「経験的十全性」(理論から観察された現象についてのすべての主張が帰結すること)にすぎない(構成的経験主義)。

科学的実在論者と反実在論者の論争は現在も進行中であり、科学哲学の主要問題となっている。

 

1.1.5 科学者との協同による個別科学哲学へ

すでに指摘したように、科学の方法論についての反省や正当化、あるいは科学の基礎的な概念についての吟味という意味での「科学哲学」ならば、科学あるいは哲学の歴史とともにずっと存在してきた、と言える。専門分野としての科学哲学が自立したのは1930年代である。エルンスト・マッハの影響を強く受けた物理学者たちを中心として、ウィーンとベルリンで展開された「論理実証主義」と呼ばれる運動が、現代的な意味での科学哲学の始まりと言ってよいだろう。その名が示すように、彼らの立場はひじょうに極端な経験主義であり、今からみれば反実在論的傾向の強いものだった。

論理実証主義者の多くがユダヤ系であったため、第二次大戦をきっかけとして、そのメンバーの多くがアメリカに亡命する。これによって、戦後の科学哲学の中心はアメリカ合衆国をコアとする英語圏に移動する。ここで科学哲学は制度化されて自立した分野として成立することになった。

論理実証主義者の多くが物理学畑であったこと、また20世紀はじめは相対論、量子力学といった物理学上の革命の時代であったことなどから、科学哲学において、当初科学の典型例とされたのは物理学だった。物理学をイメージして、科学全体を語る、という傾向がどうしても科学哲学にはあった。上述の科学実在論論争にもこのことが当てはまる。

しかし、20世紀後半になって、生物学、情報科学、認知科学などが飛躍的に発展したことを受けて、こうした傾向への反省の動きが盛んになってきている。つまり、物理学以外の科学にも目を向けて科学哲学を展開する、しかもそれを現場の科学者が巻き込まれている論争に自ら参加しながら行おうとする動きである。この動きについて、科学者と哲学者のコラボレーションが最も盛んに行われている心理学と生物学を例に述べておこう。

【心理学の哲学の問題】

人間の心を、表象を計算する情報処理システムと捉えた上で、その計算が従っているアルゴリズムを明らかにしようという認知心理学は、非常に大きな成功を収めてきた。そうした心のはたらきは脳によって担われている。一方で、脳神経科学の知見も蓄積している。脳がどのように情報処理をしているのかについて、さまざまなことが解ってきている。そうすると、この二つの研究プログラムの関係はどうなるのか、という問題が生じるだろう。二つは完全に独立なのだろうか。しかしそうすると、一方は他方の知見を利用することができなくなるし、私たちは、心のはたらきについて、互いに関係づけることのできない二つの説明をもつことになる。では、認知心理学の知見はすべて脳神経科学の言語に還元できてしまうのだろうか。しかし、それも現実味がない。認知心理学のような抽象レベルで初めてみえてくる興味深い現象はたくさんありそうだからだ。そうすると、現実的な解は、両者は相対的な自律性をもちながら、互いの知見を利用できる程度には関連しあうことのできるようなインターフェイスをもつということになるだろう。このインターフェイスは何か、それをどのようにつくればよいのか。これが心理学の哲学で問われている一つの主要な問題である。

【生物学の哲学の問題】

生物学の哲学は今日、きわめて盛んな分野となっていて、そのための専門雑誌も刊行されている。したがって、それが論じている問題も多岐にわたる。ここではそのうち二つを紹介する。

①機能概念と目的論的説明の問題 科学の一つの重要な働きは現象に説明を与えることだ。この説明には、ある方向性があると考えられている。原因を使って結果を説明することはできるが、結果を使って原因を説明することはできない、ということである。たとえば、人類が比較的正確な暦をつくることができたのは、天体の動きが周期的だったからだ、と説明することはできても、「天体の動きが周期的なのは人類が正確な暦をつくれるようにするためである」というのは科学的説明になっていない、と私たちは思うだろう。

一般に、あることがらを説明するのに、そのことがらが役立つ目的を引き合いに出して説明することを「目的論的説明」と言う。人工物には目的論的説明が有効である。どうしてこのカメラはストロボを発光させる前に弱く光るのか。それは、赤目を防止するためだ、というのはまともな説明になっている。しかし、目的論的説明は典型的に結果で原因を説明するタイプの説明である。人工物には、こうしたタイプの説明をしてもよいが、自然界の現象の説明には使ってはいけない、と考えられる。

しかし、生物学には目的論的説明にみえるものが現れる。静脈に弁があるのは血液の逆流を防ぐためだ、というような説明である。したがって、このような説明をどのように捉えるかが問題になる。つまり、こうした説明がある以上、科学的説明から目的論的説明を排除するのは不当だ、とするか、このような機能に訴えた説明は、見かけ上は目的論的説明の形をしているが、よくよく分析すれば、そうでない「原因で結果を説明する」というタイプの説明に還元できるとするかである。そして、後者の場合、どのように還元したらよいかということが問題になる。

②自然選択の単位をめぐる問題 進化学は生物学者と哲学者のコラボレーションが最も進められてきた分野の一つである。哲学者は、進化学の方法や基礎概念をめぐる論争に、概念の整理役として関わってきた。その一つの論争に、自然選択の単位をめぐる論争がある。生物はさまざまな変異をもっている。これらの中には生存に有利なものとそうでないものがあるだろう。それを自然環境がいわばふるいにかけて選択することによって、遺伝子の頻度に変化が生じる。これが進化である。…というところまではよいのだが、自然選択によって選ばれているものはいったい何だろう。選択されている単位は何だろうか、というと、意見の一致があるわけではない。それは遺伝子、個体、個体群、種のどれだろうか。どれかに決めることはなく、自然選択は、これらのすべての(あるいは複数の)レベルで働いていると考えるべきだろうか。もしそのような多元主義的な考えをとったとき、異なるレベル間の選択をどのように関係づければよいのだろうか。

こうした問題は、進化学の方法論にもかかわるし、「自然選択」という進化学の基礎概念の分析にもかかわる問題でもある。この論争も現在進行形であり、盛んに議論されている。