1.2 科学はいかにして生まれ、成長していったのだろうか

次に科学を歴史的にみていくことにしよう。とはいっても、これまでに人類が自然探究に費やしてきた努力は膨大であり、また得られた知見も途方もない量に及ぶ。たとえば、ダンネマンによる『大自然科学史』(安田徳太郎訳編、三省堂書店、2002年)は別巻を除いても12冊からなり、しかも扱われているのは20世紀初頭までである。サートンの『古代中世科学文化史』(平田寛訳、岩波書店、1951-1966年)はタイトル通り古代中世しか扱われていないが5巻本である。バナール『歴史における科学』(鎮目恭夫訳、みすず書房、1966年)もひじょうに浩瀚であり、もともとは4分冊であった。ここで自然探求の歴史の全体像を与えることなど望むべくもない。そこで焦点を「自然科学を育んできた精神」に絞ることにしよう。

 

1.2.1 自然科学を育む精神

日本でも古くから自然の探究は行われていた。しかし、現在日本で科学者たちが行っている自然科学は、その延長上に生まれたのではない。自然科学は主としてヨーロッパで誕生したのである。明治維新を境に、広くヨーロッパやアメリカから自然科学者を外国人教師として招き、また日本人留学生を送り込むことによって、日本でも自然科学が行われるようになった。

外国人教師の多くは数年で故郷に帰って行った。たとえば、ナウマン象の発掘で有名なナウマン(1854-1927)は明治8(1975)年からおよそ9年ほど日本に滞在した。その中で29年もの長期にわたり西洋医学の教育に尽力した人物にベルツ(1876-1905)がいる。ベルツは在職25年を記念する表彰式の席上、次のような忠告を与えた。

西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば誤った見方がとられているように思われます。日本の人々はこの科学を、年にこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさせることのできる機械であると考えています。

これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの生命なのでありまして、その成長には他のすべての生命と同様に一定の気候、一定の大気が必要なのであります。(トク・ベルツ編『ベルツの日記(上)』菅沼竜太郎訳、岩波文庫、1979年、238頁)

では、そのような「気候」「大気」とは何であろうか。地球の大気が無限の時間の結果であるように、西洋の精神的大気もまた、自然の探究を、世界の謎の究明を目指して、数多くの傑出した人々が数千年にわたって努力した結果であります。……これこそヨーロッパ人が至るところで、世界の果てまでも身につけている精神なのであります。

つまり、自然科学を探究するにあたりヨーロッパ人が身につけている精神をこそ日本人は学ばなければ、いつまでたってもきちんとした自然科学を行うことはできないというのである。以上は科学史家橋本毅彦が『物理・化学通史』(放送大学出版教材、1999年)で紹介しているエピソードである。

しかし、ヨーロッパ人も最初からそうした精神を身につけていたわけではない。それこそ、「数多くの傑出した人々が数千年にわたって努力した結果」、そのような精神を確立してきたのである。もちろん、そのような精神について隈なくここで取り上げることはできないが、その一端を垣間見ていくことにしよう。

 

1.2.2 歴史的概観

といっても、いきなりそうした精神の確立過程を扱うと、「木をみて森をみず」という事態に陥らないとも限らない。そこで、自然探究の歴史の大まかな流れをまずまとめておく。なお、ここでいう古代とは歴史文献が残っている最古の時代である紀元前3300年前くらいから5世紀くらいまでの3800年ほどを、中世は5世紀から15世紀までのおよそ1000年を、近代は16世紀以降のおよそ500年をさす。

【古代】最古の文明として知られるのは古代中国文明(c7000-c1600BC)、古代オリエント文明(c3500-c540BC)、古代エジプト文明(c3100-c30BC)、古代インド文明(c2600-c1800BC)である。こうした文明においても自然に関する知識は数多く知られていた。だが、のちの自然科学に直接つながるような形で自然に関する知識が花開いたのは、紀元前5~6世紀の古代ギリシャにおいてであった。これは「ギリシャの奇跡」とも言われている。

物質理論ではエンペドクレス(c492-c432BC)・アリストテレス(384-322BC)の四元素説(万物は空気・火・土・水でできているとする説)、医学ではヒポクラテス(c460-c375BC)・ガレノス(122-199)の四体液説(人体は血液・粘液・黒胆汁・黄胆汁の4種類の液体でできており、これらの平衡が崩れるのが病気であるとする説)、数学ではエウクレイデス(ユークリッド、c300BC活躍)の幾何学の体系、天文学ではプトレマイオス(2世紀に活躍)の天動説(太陽をはじめとする星々は地球のまわりをまわっているとする説)の体系などが確立した。なお、近代科学の主流となる原子論も唱えられたが、当時これは少数派であった。このように古代ギリシャにおいて成立した理論が、およそ16世紀まで1000年以上も信奉されつづけたのである。

続くローマ時代は概して自然に関する知識は衰退していく一方であった。ローマ帝国が勃興すると、ギリシャ文化もその支配下におかれ、ギリシャ科学も続けられていった。しかし、395年、テオドシウス1世(347-395;在位379-395)が崩御すると、ローマ帝国は最終的に西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割して相続され、西ローマ帝国は476年にゲルマン人の侵入によって滅亡する。もともとローマ人はギリシャ人ほど自然探究に熱心ではなかったうえ、ゲルマン人侵略による文化の混乱が襲ったのであり、もし次に述べることが起こらなかったとしたら、今日の自然科学の隆盛はなかったかもしれない。

391年、テオドシウス1世によりローマではキリスト教が国教とされる。ネストリウス派や単性論派は異端宣告を受け(それぞれ431年と451年)、ビザンツから逃れていった。実は自然探究の水準を保っていたのがこれらネストリウス派や単性論派の人々だったのである。おそらく、自然探究の水準を保っていたことと異端宣告を受けたことは関係があるのだろうが、よくはわかっていない。ペルシャの庇護のもと、主としてジュンディーシャープールに落ち着き、ギリシャ語文献をペルシャ語に翻訳しながら、自然探究のレベルを保ち続けたのであった。

【中世】西ローマの滅亡後、古代ギリシャにおける自然探究を継承したのは、イスラム帝国とビザンチン帝国(東ローマ)であった。7世紀ころから発展しはじめたイスラム帝国は、ギリシャ文化、インド文化、ペルシャ文化を吸収し、ペルシャ語の翻訳からの重訳、あるいはギリシャ語から直接アラビア語に翻訳し、9世紀頃より、古代ギリシャにおける質の高い自然探求をさらに推し進め、アラビア科学を成立させた。たとえば、インドからは0を用いた記数法が導入され、代数学の充実がみられたし、医学ではイブン・シーナー(980-1037)によりガレノス医学がさらに理論的に整備されていった。ただし、天動説、四元素説、四体液説などは基本的に維持されたし、天文学と占星術、化学と錬金術は未分化のままであった。

一方ヨーロッパは9世紀ころやっとゲルマン人侵入以降の文化的混乱を脱した(9世紀ルネッサンス)が、古代ギリシャにおける自然探究は修道院の図書室に眠るのみで、忘れ去られていた。

12世紀になると、ヨーロッパ社会は高度なアラビア科学に気づき、積極的な導入を図る(12世紀ルネッサンス)。当初はアラビア語文献がラテン語に翻訳されていたが、そのうち、これらの文献の中にはギリシャ語文献からの翻訳が多く混じっていることに気づき、ヨーロッパ内のギリシャ語文献が修道院などで渉猟され、直接ラテン語に移し換えられていった。そして、ヨーロッパでも自然探究が、主として当時成立しはじめた大学という場で再び開始される。たとえば、ビュリダンは運動する物体に関し研究し、「いきおい理論」を打ち立てた。これは運動理論に関する正確な理論ではなかったが、その後、ガリレオらの探究の先駆となった。

ただし、その流れは細々としたものであり、基本的には前代の遺産の継承に留まり続けた。16世紀になるとアラビア科学は衰退しはじめる。一方、1453年にビザンチン帝国は滅びるが、このころまでギリシャ科学は同帝国内で継承されていた。

【近代】自然科学が真に成立し、全面的に展開しはじめるのは16世紀ヨーロッパ社会においてである。最初に起こったのはいわゆる天文学革命であった。コペルニクス(1473-1543)の太陽中心説(地動説)にはじまり、ケプラーは惑星運動に関する三法則を明らかにするにいたった。一方、自由落下などについてガリレオが解明し、運動理論が確立され、力学革命が起こった。そして、ニュートンが「ニュートンの三法則」を打ち立て、天文学革命と力学革命が統一された。一方、同時期に、デカルト(1596-1650)やハーヴィ(1578-1657)らに代表される機械論的な生理理論が勃興し、人体の理解が格段に進んでいった。その後、ラヴォワジェ(1743-1794)やドルトン(1766-1844)らによる近代的元素論などが起こり、化学革命が達成された。こうして、天動説、四体液説、四元素説は地動説、機械論的生理学、近代的元素論に置き換わるとともに、自然観が刷新されていったのである。この時代の特筆すべき出来事は近代的原子論および機械論的世界観の確立である。

これ以降、学会ができ、学術誌ができといった具合に自然探究の制度が整っていく。当初学会は同好会的存在であり、自然探究者もほかに職業をもつ愛好家であったが、科学者という職業も成立する。科学者という英語ができたのは1840年代である。それまでは個人のポケットマネーか、パトロンに資金を出してもらって研究が進められていた。しかし、科学研究の成果が産業化され利潤を生み出すようになると民間企業にも科学者は必要とされるようになる。

20世紀には国家予算も科学研究に投下されるようになる。予算規模が拡大するにつれ、多くの人と多額の予算を一つのテーマに注ぎ込む巨大科学も生み出される。たとえば、原爆を開発したマンハッタン計画(19億ドル)や人類の月面着陸を達成したアポロ計画(当初予算220億ドル)、ヒトの遺伝情報をすべて読むゲノム計画(予算は30億ドル)などがこれである。ゲノム計画は2003年に2グループによって大方解明されたが、論文の著者にはそれぞれに200名近くが名を連ねた。物理学における素粒子研究では、1980年代に87.12 kmもの長さ(ちなみに山手線は34.5 km、大阪環状線は21.7 km)の超伝導超大型粒子加速器の建設計画(SSC計画)が進められたが、巨額の資金(80億ドル以上)を維持できず、1993年に途中で頓挫したほどであった。

また、1970年代ころには、科学は人々に恩恵をもたらすだけではなく、核兵器や枯れ葉剤など、害悪をももたらすと考えられるようになり、科学批判がなされた。その後もヒトのクローン作成など問題点が指摘され、生命倫理学などによって科学の発展のしかたの制御が試みられている。

駆け足でごくごくおおまかな自然科学の歩みを振り返ってきたが、さらに詳細を知りたい人は巻末に挙げた書物が参考になるだろう。

 

1.2.3 技術知と自然科学、実用主義と目的主義

おおまかな流れが分かったところで、自然科学という営みの大きな特徴である「目的主義」がどのように生まれ、歴史的消長を経てきたのかについてみていくことにしよう。

【古代】私たちはDNAという物質からできている。ヒトにもっとも近い生物であるチンパンジーやボノボのDNAと私たちのDNAを比較したところによれば、ヒトとチンパンジーたちが共通の祖先から分かれたのは700万年前ころであったらしい。実際、当時の地層から、最古の人類(ヒト科)の化石が発見されている。サヘラントロプス・チャデンシスがそれである。私たちとこれらの最古の人類に共通する特徴は、二足歩行と犬歯の縮退である。脳は三分の一から五分の一ほどの大きさであり、ヒトが脳を発達させ、高度な思考ができるようになるのは、700万年ほど前から数百万年をかけてのことになる。

人類は少なくとも250万年前以降、自然についていろいろ知っており、自然を利用する術によって、自然を人類の好むように改変してきた。すでに250万年ほど前の地層から、太古の人類が用いたと思われる石器が発見されている。50万年ほど前には火を調理や暖をとるために使っていたらしい。また、食用や薬用にするために、動植物についてもよく知っていた。紀元前4000年~3000年前に繁栄したエジプト文明やメソポタミア文明では、大規模な土木工事が行われ、灌漑技術や農耕技術が進んでいた。

しかし、この時期においては、あくまで何らかの目的を達成する手段として、つまり実用主義的に自然の知識を得てきた。自然の知識を得ること自体を目的とする「目的主義」的発想が始まるのは紀元前5~6世紀のギリシャにおいてである。目的主義的発想を明確に述べた最初の人物の一人はピュタゴラス(c570BC-?)である。これ以降、実用主義的な発想と目的主義的な発想は歴史を併走していく。こうして古代ギリシャ時代に、人類は技術知から自然科学へと一歩踏み出すことになった。

【中世】ローマ時代は自然探究が衰退したが、その理由の一つはローマの実用主義にあった。ギリシャのような自然探究は役に立たないとして冷淡であったのである。三角形の三辺の長さから面積を計算する「ヘロンの公式」で有名なヘロン(c100に活躍)は自動扉などさまざまな機械を考案した。今日から見れば、ヘロンは実用主義者に思えるが、これらの機器に対してさえ、ローマの人々はさして実用的とはみなさなかった。奴隷にやらせればすむことなのに、なぜ七面倒くさい機械をわざわざ作らなければならないのかと思ったためであろう。手品あるいは見世物とみなされるのがおちであった。

イスラムの自然探究には実用主義と結びつく側面が多く見られる。たとえば、イスラムにおいて相続は非常に複雑であり、遺産額を確定する必要性のため、数学理論を発達させた。また、イスラム教徒はどこにいても定時にメッカに向かって礼拝しなければならず、そのために時計と方位計が必須であったが、自然探究はそれらの機器を発明するために活用された。

【近代】目的主義的発想が地歩を固めたのが16~17世紀であった。このころのヨーロッパで自然を知ること自体に価値があるとする発想が比較的多くの人々に支持されるようになった。こうして一見何の役に立たないような自然科学も順調な発展の道を辿ることになった。また、その過程で大きな応用力をもちはじめた。イスラムにおける自然探究と実用主義の結びつきが、18世紀末から19世紀にかけて大々的に起こったのである。こうして自然科学は概して役にも立つとみなされるようになったのだが、一見何の役にも立たないような部分が多くみられる基礎科学と実用主義的な応用科学に色分けされ、基礎科学と応用科学をどのような比重で重視すべきかを巡っては、今日でもさまざまな議論がなされている。

 

1.2.4 神話・呪術・宗教から自然主義的・合理的思考法へ

次に、自然科学の大きな特徴である「合理主義」がどのように生まれ、歴史的消長を経てきたのかを一瞥していこう。

【古代】古代ギリシャ時代には、今述べた目的主義的発想以外にも、自然に対する態度にいくつかの重大な変化が起こった。たとえば、神話から自然的思考法への変化もその一つである。日本でもかつて日照りのため飢饉が生じ、多くの人命が失われた。太古は、逆境に直面した人々は雨乞いをして、神に祈るしか方法がなかった。また、洪水などで何度も同じ橋が流されたとき、人々は人身御供を人柱として神に捧げ、橋の安泰を祈願した。つまり、自然に何かが生じたとき、それは神の御心にしたがって起きたと了解されていたのである。こうした発想のもとでは、自然の探究は往々にして神に直ちに行き着き、それで終わりとなってしまう。これでは自然科学が発展しようもない。

自然について考えるときに神をもちだすことは一切やめようと訴えたのも古代ギリシャの自然探究者たちであった。タレス(c624-c546BC)は「万物は水である」と唱えた。この後、アナクシメネス(c546BCに活躍)による「万物は空気である」、ヘラクレイトス(c500BCに活躍)による「万物は火である」、エンペドクレス(c492-c432BC)による四元素説「万物は火・空気・水・土からなる」と超自然的な要因を一切排除した学説が続く。そして、デモクリトス(c420BCに活躍)の原子論が登場する。また、ヒポクラテスは、「神聖病」とされていた癲癇を、脳の病気であり神は関係ないと言い切った。自然のことは自然の内部で説明しきるべしとする自然主義的な精神的態度がここにはっきりと表現されている。

【中世】この神話からの脱却はただちに広く世間に浸透したわけではない。紀元前5~4世紀に仏教、1世紀にキリスト教、6世紀にイスラム教といった具合に、各地の民族土着の神を脱した普遍的な神が登場し、いわゆる普遍宗教が誕生する。先に述べたように、ローマ帝国が広範な領土をもつようになり、ギリシャもローマ帝国の一部となる。そして、391年にはキリスト教がローマの国教になり、395年にローマ帝国が二分割されたのちもキリスト教が人々の精神生活を支配しつづける。そして、このころより12世紀までは、ヨーロッパでは、自然科学はほとんど進展しなかった。おそらく、キリスト教が絶対的権威をもっていた時代にあっては、キリスト教による世界解釈で充分であり、それ以上の自然探究は必要とされなかったのである。逆にイスラム教にあっては、科学はコーランの教えと一致する方向で構成するという大前提のもとで、自然探究が推し進められていった。

【近代】当時のヨーロッパではキリスト教が引き続き支配的であったが、以前とは異なり、近代初頭において自然探究を後押しした。「神は自然をお造りになった。自然がどのように造られたのかを知ることは、神の御心を知ることに通じる」という思想的態度が確立したためである。その後しばらく、神の御心を知る作業の一環として自然は探究されていく。この場合も、自然探究は手段という位置づけである。たとえば、ナウマンは「日本人は西洋のような近代化を果たすことはできないだろう、なぜなら、西洋近代の基礎となるキリスト教を欠いているからだ」と言った。

手段ではない、目的として自然探究が位置づけ直されるのは18世紀末から19世紀半ばにかけてであった。これ以降、宗教と科学は基本的に峻別されるようになる。また、自然法則自体がすなわち神であるというような発想がみられるようになった。さらに、アメリカにおける創造科学(聖書に記されていることは科学的に正しい)のような例もみられる。

 

1.2.5 探究方法の展開、観察と実験、数学的法則

自然科学の重要な特徴は相互批判と、それが真実であるかどうかを確認するための徹底的検証にある(現実になされているかどうかは別の話である)。そのために、いろいろな方法を案出してきた。最後に、方法論の発展に目を配っておこう。

【古代】古代ギリシャにおいて高度に発達したのは数学的学問であった。この場合、合理的論証が科学を推し進める主要手段であった。一方、生物学的研究をよくしたアリストテレスは「細心な観察」こそが自然探究の基本だとした。

また、事物の本性・自然は数学的・量的なものとしては把握できないことをアリストテレスは強調した。

【中世】イスラム科学の旗手の一人イブン-ハイサム(945-c1040)は光学をよく探究したが、「実験」を多用した。おそらく、こうした「実験」が近代的実験の先駆形態であろう。もっとも近代的実験は、主として自然界ではまれにしか起らないような状況を人為的に創り出し、自然法則を顕わにさせることをめざすが、このころの実験はその点が明確に意識化されてはいなかった。13世紀になると、アリストテレスの科学的方法論の補完作業として、グロステスト(c1168-1253)は実験という手法をとるべきことを強く主張した。彼自身も球形レンズによる光の屈折によって虹を説明するために実験を行っている。ロジャー・ベーコン(1210-92)も同様な主張をした。

スコラ哲学(14世紀前半、オックスフォードのマートン・カレッジ)では、アリストテレスの『自然学』の運動論やユークリッドの比例論などを取り上げた。ここには数学的・量的な手法を嫌ったアリストテレスからの脱皮の傾向が読み取れる。

【近代】本格的に実験がなされるようになるのは、ガリレオ(1564-1642)やパスカルからである。それ以前は思考実験が多かった。ちなみに、ガリレオやパスカルにおいても、なお思考実験的な要素も多い。新たな知見を得るというよりは、前もってよく知られた結論を例示するために実験がなされていた。新たな知識を得る手段として活用したのは、ギルバート(1544-1603)やボイル(1627-91)、フック(1635-1703)あたりからである。

また、ガリレオは「自然は数学という言葉で記されている」としたが、この頃から自然を数学的・量的に捉えようとする方向が強くみられるようになった。そして、量と量の関係を自然法則の形で定着させようとする基本態度が確立した。19世紀になると、実験という手法と定量的法則化が結びつく。そのことによって、自然科学は大いに発展することになったのである。19世紀半ば以降には、肺活量の測定や心電図といった医学用測定機器も多数開発され、われわれの身体も数値化して捉えられるようになった。

ここでは、目的主義的発想、合理的思考法、実験や数量化による法則の発見といった科学の特徴が、どのような歴史のもとに今日の姿をとっているかをみてきた。こうした精神が自然科学を育む精神(の一部)なのである。