1.3 科学・技術と社会を考える学問

科学・技術と社会は、好むと好まざるにかかわらず、互いに深く関わりあう。科学・技術は予想もしなかった仕方で利益と不利益を社会にもたらす。社会は、予想もしなかった仕方で科学・技術の進路に影響を与えることがある。科学・技術と社会が互いに影響しあう様子は、科学者や技術者だけでなく、あらゆる人の暮らしや人生にとっても大きな関わりをもっている。したがって、科学・技術と社会が互いに影響しあう様子や、そうした影響に関与するメカニズムの研究は、科学・技術のふるまい方を通して現代の社会のしくみを調べることにほかならない。

 

1.3.1 活動としての科学・技術

科学・技術と社会の関係を考える最初の一歩は、科学・技術が何をさしているかを知ることだ。科学・技術は知識だと言われる。同時に、そのような知識を産物として生み出し、改訂する過程でもある。科学・技術を社会との関係で捉えようとするときの最初の一歩は、このように知識という産物であると同時に産物を生みだす過程でもあるという2種類のメガネを通して科学・技術を眺めることである。

そのような、知識とそれを生み出す活動の両方を映し出すようなメガネで科学・技術を眺めてみると、科学と技術では性質が異なることがわかる。科学は、因果論的な知識を生むきっかけになった17世紀の近代科学革命に端を発する。技術の方は、古代以来、治水、種まき、灌漑といった目前の実用に応える技として蓄積された経験則(例、農事暦、求積法など)に端を発する。科学の担い手の多くは学者の出自であり、技術の担い手の多くは職人の出自である。科学者の目的は「なぜそうであるのか」という問いに答えることであり、未決の問題には、解らないと答える。技術者の目的は「いかにしてできるか」という問いに答える有用物を生み出すことであり、往々にして未決の問題を繰り延べにすることができない(極端な場合、なぜそうなるかはともかく、とにかくなんとかすることが求められる)。

このように、来歴も、担い手も、目的もおよそ趣を異にする(場合により、正反対である)にもかかわらず、科学と技術は接近の度合いを深め、社会に対してあたかも一つのものであるかのようにふるまうようになる。そのように科学と技術が複合して、社会に対して一つのものであるかのように立ちあらわれる姿を以下で「科学技術」と呼ぶことにする。19世紀半ば以降のことである。科学の原理を活用した軍事技術の開発競争や企業内研究開発を介した市場競争といった社会の側の要因が、科学技術の成立に関わった。そうした社会的要因をきっかけとして、科学と技術のあいだに資金、人材、情報、物財の定常的なやりとり(以下、相互作用と略記)が生じるようになる。そして、専門職業化した学会、生産工程における新たなポスト、大学の講座、科学技術行政機構などがそうしたやりとりを媒介するチャンネルの役割を演ずるようになる。専門家どうしがやりとりをする科学者集団が17世紀の近代科学革命期に成立したとすると、19世紀半ば以降、特定分野の専門家としての科学者が雇用される、職業としての科学者の役割が新たに生まれてくることになる。明治以来の我々が知るのも、そのような科学技術の成立を背景に登場する職業としての科学の姿であろう。

 

1.3.2 社会とは何だろうか

そうした職業としての科学の活動を通してみえている世界、すなわち同僚の集団を通して目に映る他者の集まりを一括して社会と捉える見方は多い。

ところで、社会を学問的に考えようとすると、異なる見方を必要とする。人間はその一生の間、科学者であり、ジャーナリストでもあり、市民運動家でもあり、政治家でもあるという具合に、趣の異なる複数の活動の間を縦横無尽に往来するような人生を最大限に送ることが不可能ではない。それでも、社会の全域をみずから経験しつくすことはどだい不可能である。一方、社会は我々が経験しようがしまいが歴然と存在する。つまり、自分の活動を通してみることのできない、広大な世界が歴然と存在する。では、いかにしてそのような社会の全域を捉えることができるのだろうか。これが、社会を考える際の基本的な問いである。

ずいぶんと気宇壮大な問いだと思われるかもしれない。けれども、そういう社会学の基本的な問いが、じつは科学技術と社会の関係を考えるうえでも無視できない影響をもつ。たとえば、科学者は自分の研究室にこもって研究ばかりしていればよいという時代ではなく、社会に対する説明責任を果たす必要があるといわれる。科学の側から社会に歩み寄る必要性が説かれる。他方、社会の側から科学の営みに対して積極的なはたらきかけをする動きも顕在化している。たとえば、応用倫理に関わる争点について社会の側からきちんとガイドラインを示すべきだというように。

科学が社会に歩み寄り、社会が科学にはたらきかける双方向の動きが認められ、科学と社会の相互理解にとっては好都合と思われるであろう。ところが、社会を学問的に捉える視点から眺めると、事柄はさほど単純ではない。先に述べた基本的な問いに照らしてみると、科学が歩み寄ろうとする、あるいは科学にはたらきかける、当の社会の内訳は、全域の把握を容易に許さぬような多様性を備えていると考えられるからである。科学者から社会への説明責任を果たすべきだとか、社会の良識に従ってガイドラインを作ろうという場合、社会という一様な実体が存在することが前提となっている。他方、社会は多様きわまりない個人の集まりである。あまつさえ、国籍、人種、宗教、性別、階層、業界などといった境界によって分割されている。社会の内訳は、とうてい一様とは考えにくい。

すると、とても多様で、みずからの体験可能な範囲を超えて広がる社会の全域をどう捉えることができるかについて解答の見通しを与えないかぎり、応用倫理であれ、説明責任であれ、さらに科学技術と社会の関係であれ、実質的にはなにも語っていないに等しい。かつてポスト・クーン派の科学社会学で、一般の人の眼に触れない科学というブラック・ボックスの内訳を開いてみせるという営みを科学社会学になぞらえ、「箱を開く」という表現が用いられたことがある。いまあえてそのひそみに倣うなら、人びとがあたかも一枚岩の実体であるかのように自明視している社会という暗箱を開く、すなわち社会の多様な内訳を開いてゆく営みが科学技術と社会の関係を考えるために必要な次の一歩である。

 

1.3.3 科学技術と社会の関連を考える社会学の方法とは

それでは、どのようにすれば、そうした多様性をもつ社会と科学技術の関連を考えることができるだろうか。なにより、同一の術語により科学技術と社会を共に過不足なく記述できることが重要である。科学や技術をある術語で記述し、社会については別の術語で記述するというのでは、系統的な記述になりえず(いわゆるダブル・スタンダードによる記述の恣意化)、科学批評や社会批評、あるいは両者の任意の組み合わせとさして選ぶところがない。いかなる内容の術語であるにせよ、少なくとも社会についても科学についても同じように系統的に記述できる術語群を見出すことが、科学技術と社会の関連を考えるときの方法の基本だ。そのような性能を充たす術語群には、複数の候補がある。ここでは、社会学で開発された概念を参考に、次の六つの術語群を紹介したい(社会だけでなく、科学も等しく記述できることを示すため、科学の場合に対応する解釈を記した)。

表1 科学社会学の基本術語

こうした術語群のご利益は、二つある。一つは、前記のとおり、社会の記述にも科学技術の記述にも等しく用いることのできる汎用性を備えていること。いま一つは、それゆえ、科学技術と社会の関連を考える学問的な探究課題を導くための、共通の手段を提供してくれることである。すなわち、前記の術語群を用いて、科学技術と社会の関連について大きく三つの探究課題を導くことができる。三つの課題は、社会をどの水準で捉えるかに関わる。

 

1.3.4 科学技術と社会の関連をめぐる三つの課題

科学技術と社会の関連は、社会をどの水準で想定するかにより、以下の三つの課題に分解できる(煩雑なため、本項目では「科学技術」を「科学」と表記する)。

(1)科学者集団の内部の様子を調べる

科学者集団を一つの社会と想定し、科学者の論文生産行動や科学者のネットワークと、科学者集団の特性(例、普遍主義的な業績評価の規範など)との関連を明らかにする。たとえば、ノーベル賞の選考過程においてナショナリズムとインターナショナリズムがせめぎ合う様子の解明などは、そのような研究の見本例である。

(2)科学制度や科学組織が成立するまでの過程を調べる

科学制度や科学組織によってプロの科学者が雇用されるようになる過程を社会過程と想定し、科学が社会の他の部分から相対的な自律性を獲得して行われるに至るダイナミズムを明らかにする。たとえば、科学研究に対する資金援助が、スポンサーの意向というひも付きでなくなる過程の解明などは、そのような研究の見本例である。

(3)科学制度、科学組織と他の社会制度、社会組織とのやりとりを調べる

いったん成立した科学制度や科学組織が、他の社会制度、社会組織と何をどうやりとりして存続、変化(発展、衰退)するかを明らかにする。たとえば、核ミサイルの命中精度の向上に携わる小集団の目的が、大学、海軍、空軍、国防省、議会といった異なる利害関係者とのやりとりを通し、自己目的化していく様子の解明などは、そのような研究の見本例である。

以上の各課題に付された番号は便宜上のもので、課題の優先順位を表すものではない。また、ここでは詳しい論証を省くが、各課題は互いに矛盾がなく、科学技術と社会の関連を過不足なく包摂する。さらに、(1)と(2)の課題の一部は(3)の課題に依存する。そこで、以下では、(3)の課題、すなわち制度や組織の水準で科学技術と社会が何をどうやりとりしているかをもっぱら念頭において話を進めたい。その前に、とりあえず、これまでに述べたことを踏まえて、科学技術と社会の関連を考える試み、あるいは科学社会学をめぐる誤解を解いておくことが望ましい。

 

1.3.5 科学技術と社会の関連を考える際の誤解

第一に、科学技術と社会の関連を考えるとは、特定の科学技術分野の当事者や社会の特定の利害関係者の体験や実感を、科学技術と社会の界面全域に野放図に一般化することではない。そうした個人の体験にもとづく実感主義は数限りなくあるが、どこまで妥当するかを確かめる手だてが乏しく、声の大きいほうの実感が一般化されることになりかねない。つまり、科学技術と社会の関連を考える営みとは、当事者や利害関係者の体験や実感を踏まえつつ、あくまでも第三者にとって観察可能な事実に照らして、科学技術と社会の関連について妥当性が確認できる知見を蓄積する。一言でいうと、それ自体が学問である。

第二に、だからといって、既存の学問の方法をそのまま適用すればたちどころに科学技術と社会の関連について信頼できる知見が得られるわけではない。つまり、科学技術と社会の関連を知るとは、複数の異なる学問分野の知見を照合してそれぞれの妥当性を慎重に確認しながら、知見の妥当する範囲を広げてゆく一種の学際的な営みである。その結果は、異なる知見どうしの相互豊穣化になることもあれば、相互不毛化になることもある。

第三に、そのような学際的な営みを構成する学問分野の一つの核として科学社会学が言及されることがある。科学社会学というと、科学者や科学者集団を対象とする学問という印象をもたれがちだが、科学社会学の対象は科学者集団の内部の様子に限られない。前記のとおり、科学技術と社会の関連をめぐり、社会をどの水準で想定するかに応じ、三つの異なる課題が導かれる。この節の内容は、そのような社会のさまざまな水準と科学技術のやりとりを扱う科学社会学を踏まえて書かれている。

 

1.3.6 科学の自律性と社会とのやりとり

科学者が科学論文を生産すると同僚による評価(査読、追試、再追試等々)を受ける。同僚のなかには、同じ分野の専門能力を具えた科学者以外の人は含まれない。つまり、科学知の妥当性の判定は、科学者集団の外部の利害関係者から自律して行われる。たとえば、政治家や、官僚や、産業人や、ジャーナリストは強大な作用を及ぼそうと、科学知の妥当性を意のままにできない。そのような科学の自律性が、ときの権力者から独立に科学の妥当性を決める余地を与え、科学知の品質を保つのに貢献してきた。

ところで、この事実は、科学が社会とやりとりしないということを意味しない。前記のとおり、科学は技術と相まって、社会と不断にやりとりをしている。すると、社会からの自律性を具えつつ、社会とやりとりすることはどのようにして可能になっているのだろうか。この問いは、科学技術と社会の関係の、他の活動とは際立って異なる二つの特徴を教えてくれる。一つは、科学と社会の関係は、市場において貨幣と交換に何かを買うような関係とは異なる。市場における取引の場合、支払いと引き換えに何かを得ることができる。科学の場合、社会が科学に投資したからといって、すぐに見返りが期待できるとは限らない。忘れた頃に、期待をはるかに上回る見返りが技術に体現され、思いがけず社会に投入されることは珍しくない。あるいは、期待どおりに、見返りがないこともある。いずれにせよ、科学と社会の間のやりとりには、時間の遅れが伴う。時間の遅れは、数年の場合もあれば、数十年という場合もある。科学から社会への見返りに関するかぎり、波及効果が巨大な場合、数十年単位の時間の遅れが観察される。そして、貨幣に換算して投資した分だけの見返りがある場合も、ない場合もあるという不確実性を伴う。通常の社会現象において、このような時間の遅れと不確実性を伴うやりとりを成立させるしくみは信託である。つまり、科学と社会のやりとりは、市場における取引というモデルよりも、社会から科学への信託というモデルを通して捉えるほうが適切である。

いま一つの特徴は、科学技術と社会の関係は二項の間の対称の関係ではなく、三項の間の非対称の関係だという点だ。この点について、項を改めて述べたい。

 

1.3.7 科学技術と社会の相互作用の型

科学技術と社会の間の相互作用は複雑だ。そのため、とりあえず単純化した型を通して理解することが必要になる。さりとて、単純化しすぎると、相互作用について意味のある情報が得られなくなってしまう。そのような観点から眺めると、二つの識別が重要だ。

図1 科学技術と社会の相互作用の一つの型[1]

*破線の矢印は相対的に弱い作用を、実線の矢印は相対的に強い作用を示す。

第一に、科学技術と社会の間の関係を科学、技術、社会の関係に分解して捉える必要がある。科学技術と社会の間の相互作用の安定した型の一つは、技術を媒

介にして科学と社会とが相互作用する型だからである。第二に、巨額の先行投資によってさまざまな人工物を社会に投入し続ける技術の内訳を、従来の前線を突破する新機軸を実現するための先端技術と、すでに信頼性が確立して市場に定着した商用技術とに分解して科学技術と社会の相互作用を捉える必要がある(図1)。そのような相互作用の型が、現代における技術を媒介とした科学と社会の関係に潜む非対称の構造を教えてくれるからである。

 

1.3.8 科学技術と社会の間の非対称の構造

ここで非対称の構造とは、物財、情報、人材、資金がそれぞれ流れやすい界面と、流れにくい界面が科学、技術、社会の間に存在することを意味する。たとえば、科学と先端技術の界面では、技術から科学へよりも、科学から技術へのほうが人材が流れやすい。科学分野出身者の技術分野へのスピン・オフ、理科系人材のファイナンシャル・エンジニアへの転身などがそれにあたる。商用技術と社会の界面では、正確な技術情報、リスク情報を上回る勢いでパソコンなどの家電製品、携帯電話などが氾濫することに象徴されるように、物財のほうが情報より技術から社会へ流れやすい。科学技術と社会の界面では、科学技術から社会へよりも、社会から科学技術へのほうが物財、資金が流れやすい。巨大科学はその典型的な例と言える。

このような非対称の構造は、科学技術がもたらす利益、不利益を、共に増幅して発現させるはたらきをもつ。たとえば、科学と先端技術の界面で物理学者は、マンハッタン計画、弾道計算用高速演算機械計画といった科学技術動員を通して先端技術分野へ流れ、原子炉、コンピュータを生む。商用技術と社会の界面で、原子炉、コンピュータは、それらの正確な技術情報(例、安全性、完全性)が充分伴うより先に、社会へ流れる。そうした物財の急速な普及は、使用頻度を上昇させ、利益(電力供給、機械支援)と不利益(事故のリスク、ウィルスのリスク)を共に増幅する。科学技術と社会の界面の非対称の構造により、仮に不利益が発現したとしても、社会から科学技術への物財、資金の流れにマイナスのフィードバックはかかりにくい。その結果、いわばその場だけの対策が施され、同型の問題が再生産される。

これは、科学技術と社会が相互作用する界面における一つの近似にとどまる。けれども、このメカニズムは、現代において科学技術と社会が出会う典型的な状況を示唆している。以下では、これまで述べた科学社会学の基本をふまえ、科学技術と社会が出会う現代日本の状況をもう少し立ち入って例示したい。最初の例示は、科学技術と社会の界面で発生する争点をめぐる専門家と非専門家の見解に関わる。

 

1.3.9 専門家と非専門家の多様性

科学技術と社会が相互作用する界面の非対称の構造は、科学者、技術者といった専門家とそれ以外の非専門家のあいだで、特定の争点をめぐって見解が分かれる場面を想起させる。科学知を具えた科学者が科学知を具えていない一般の人に科学を理解してもらうといった、科学の公衆理解における専門家と非専門家の二分法的な想定は、そのような場面の古典的な例の一つである(その変種として登場した双方向的なコミュニケーションの試みも同様の想定を共有する)。ここで専門家とは、特定の事柄のみかけ上の確からしさと、確からしさを識別できる能力を訓練によって身に付けた人をさす。

ところで、そのような専門家と非専門家の間で特定の争点をめぐる見解の線引きがなされるという二分法的な想定はつねに成り立つとは限らない。とくに、科学技術と社会の界面で発生する公共的な争点をめぐっては、専門家、非専門家それぞれが一様ではありえず、社会の多様なグループどうし、あるいは専門家どうしの間に複雑な関係が生じる。たとえば、前者については、発電用原子炉の立地をめぐって鋭く対立するはずの電力会社(推進派)と地域住民(反対派)が、風力タービンの立地については、発電用原子炉の立地問題は棚上げして共に推進派に回るといった緩やかな連携関係を形成する場合がある。後者については、たとえば、日本産科婦人科学会と一部の開業医との間に生殖補助医療のガイドラインをめぐって対立するといったように、専門家どうしの間に入れ子型の対立が存在する。

このような複雑な関係を踏まえると、多様な専門家と多様な非専門家の間に、現実にはさらに複雑な関係が予想される。とりわけ、応用倫理、たとえば生命倫理のような機微にかかわる争点をめぐっては、そうした複雑な関係は万人の利害に関わる。以下では生命倫理を焦点に述べるが、そこに登場するような、専門家と非専門家のすれ違いが万人の利害に関わるといった状況は、応用倫理の他の争点についても充分に起こりうるという想定のもとに読んでいただければ幸いである。

 

1.3.10 生命倫理をめぐる専門家と非専門家のすれ違い

生命倫理をめぐる専門家と非専門家の間の関係は、対立というより、すれ違いに近い。すれ違いには、すくなくとも三つの次元がある。第一に、専門家は研究や検査や病気の種類に応じて生命倫理に関わる判断を個別に下そうとする、強い個別化志向をもつ(専門家は、前項の定義のとおり、あくまでも特定の限定された事柄についての専門家であるため、これはなかば当然の帰結である)。これに対し、非専門家は、問題の全体像がみえにくいことへの不安や不満をもちやすい。言い換えると、専門家は問題を分節化して各論にしてから解答を与えようとする傾向があるのに対し、非専門家の関心はとりあえず生命倫理に関わる問題の全体像、すなわち総論に向けられている。このような非専門家の総論志向は、専門家からすれば、およそ性質の異なる問題を混同している点において、意味のある判断につながりそうもない無謀なものと映るであろう。他方、非専門家からすれば、専門家の各論志向はどこまでいってもきりのない細分化のあげく、各論をどこまで足し合わせても総論にたどりつけないような代物と映るはずである。この状態が続くかぎり、すれ違いは再生産され続ける。

考えてみれば、各論を抜きにして総論はありえない。逆に、各論を足し合わせるだけでは総論はおぼつかない。つまり、専門家は非専門家に意味のある各論の必要性を示し、逆に非専門家は専門家に意味のある総論の必要性を示すことが、すれ違いを互いに補い合う関係に転換する鍵を握っている。

第二に、非専門家が専門家へ問題を投じ、専門家は社会へ問題を投げ返すという緩やかな循環構造が存在する。そして、そのような循環構造を通して専門家と非専門家がすれ違う傾向がある。たとえば、非専門家は遺伝情報の管理に関する責任を専門家に問うことがしばしばみられる。これに対し、ガイドラインや倫理委員会といった形で生命倫理が制度化される状況にある専門家は、遺伝情報の管理システムも含め、「社会が態度を明確化し、専門家はそれに従うべき」という答え方をすることが少なくない。遺伝情報管理に関する態度を社会が明確化することなく、それに必要な予算措置もなされないならば、そこから生じるすべての帰結の責任は社会が負うべきであって、専門家ではない、というかたちで問題が緩やかに循環している。結果として、専門家と非専門家がすれ違うことになっている。

第三に、非専門家はリスクを問題にし、専門家はベネフィットで応えるというすれ違いがみられる。たとえば、非専門家は遺伝子診断による個別的なベネフィットよりも、むしろ遺伝子研究に伴う意図せざるリスクや社会全体への影響に関心を寄せるとすると、専門家は個別的なベネフィットを示すことによって遺伝子研究の有効性を主張しようとするような場合である。

いずれかの次元のすれ違いが存在するかぎり、多大の資金が専門家と非専門家の相互理解とコミュニケーションに投じられたとしても、専門家、非専門家の双方が実質的に腑に落ちる了解に達することはない。その場合、コミュニケーションを図ったという事実が存在する一方、当事者間の実質的な了解が不在という状態がもたらされる。生命倫理のように万人に結果が及ぶ可能性のある争点に関するかぎり、この状態は危険である。なぜなら、当事者間の実質的な了解が得られていないにもかかわらず、コミュニケーションの努力を重ねたという事実が免罪符となり、何事かが社会的決定として当事者に与えられ、そこから生じる帰結を自己責任として処理する可能性が開かれるからである。その場合、やみくもにコミュニケーションに希少な資金を投入するよりも、まずはすれ違いを補正するための方策の実行に資金を投下することが肝要である。たとえば、理非を尽くした議論の前提として、いかなる立場であれ、複数の異なる立場のリスク、ベネフィット、コスト、公正らしさが争点ごとにきちんと分類されて開示されていることは不可欠の条件である。

 

1.3.11 科学技術と社会の界面におけるリスク

制度や組織は、元来人間が環境の不確実性を縮減して、安全に生きるためのしくみである。他方、高度に分化した制度、組織に恵まれているはずの現代社会において、環境安全、医療安全、食品安全、情報の安全、金融システムの安全、エネルギー安全、核廃棄物貯蔵の安全等々、安全をめぐる争点はかつてない緊急性を帯び、万人にとっての問題となることが多い。このように、科学技術と社会の界面における様子のまだよくわかっていない系の安全を定義することは、きわめて困難である。安全は常に努力目標として存在する。そのような状況では、どうすれば安全を達成できるかという設問より、安全を達成するには少なくとも何をしてはならないか、すなわちリスクをいかに回避するかという設問のほうが現実的な意味をもつことが多い。ここでリスクとは、不確実性がともなう、人間の集まりにとっての将来的な不利益と考えていただきたい。

リスクに関する研究は、これまで特定の技術系に関する定量的リスク評価を中心とする工学的リスク論、意思決定過程の合理性を問題にする経済学的リスク論、特定の集団系のリスク認知、リスクコミュニケーションを中心とする心理学的リスク論などが大きな流れとなっている。いずれもリスクにかかわる現象は測定可能という立場を共有する。すなわち、工学的リスク論と経済学的リスク論は基本的には確率論的な期待値の計算によって、また心理学的リスク論は基本的には尺度構成法によってリスクにかかわる現象が測定できると想定する。この節で念頭におく科学社会学の流れを汲むリスク論の場合、むしろ測定されるリスクの内容が社会的に影響される余地をもつとみる。社会的影響とは、リスク認知が国によって異なるといったみやすい要因だけをさすのではない。煩雑すぎる規制であるとか、それなるがゆえに日常的に規制から逸脱せざるをえない現場の実態であるとか、そのような実態をノーマルなものとして許容してしまう現場の文化であるとか、その結果外部に知られることなく逸脱が長期間定着してしまうといった、制度や組織に埋め込まれた現場のインフォーマルな要因が含まれる。

こうした知見は、巷に言われる安全と安心を並べて語ることには、むしろ社会的なリスクがともなうことを教えてくれる。制度や組織に埋め込まれたこうした現場のインフォーマルな要因は、インフォーマルなるがゆえに部外者の目にはとまらないことがむしろ普段の状態である。問題の系が安全でないことが誰の目にも明らかとなるような出来事(例、事故)が起こってはじめて部外者の目にもみえることになる。したがって、普段の状態のもとでリスクコミュニケーションが功を奏して安心感が醸成されることは、じつは安全でないにもかかわらず、部外者が安心しているという事態が含まれる。科学技術と社会の界面で発生する安全をめぐる争点は、前記のとおり、万人に結果が及び、部外者であっても問題の当事者となりうる。極端な場合、安全が脅かされる可能性のある当事者であるにもかかわらず、安心して、なんら行動を起こすことがないという状態が帰結しうる。

 

1.3.12 科学技術と社会の界面における参加の意義と注意点

リスクや安全に関わる問題をはじめ、専門家以外の人びとも関与しつつ、科学技術と社会の間で発生する争点を解こうとする参加型の試みがしだいに行なわれるようになっている。そのような試みは、まだ充分な程度に成熟していないが、一部の専門家と利害関係者だけからなる、閉じたサークルのなかで万人のリスクや安全に関わる重要な事柄を決めるしくみから、より開かれた民主的な決め方へ向けて進む姿勢を内外に示すという意義がある。

他方、参加型の試みは、開かれた民主的な決め方とは無縁の代物へ転化してしまう危険も伴う。問題は、専門知によって何が正解であるかが未知の争点が科学技術と社会の界面で発生することが珍しくない状況にある。たとえば、放射性廃棄物の処分地をどう選定すべきかについて、専門知によってにわかに正解を与えることは困難だ。他方、民意によって選定すべきだとして、では何が民意であるかを見極めることはこれまた容易ではない。そのような状況のもとで、専門家と市民との間の協働、すなわち市民参加型の手法を用いて社会的に対応しようとする場合(例、参加型意思決定、参加型技術アセスメントなど)、何が正解であるかといった、にわかに答えがたい基準より、とりあえず参加者満足度が高ければ社会的に問題が解決したことにする(そのようにみなす)といった基準が重用されるであろうことは想像に難くない。参加者の満足度は参加者満足度調査によって確認できる使い勝手のよさを備え、かつ参加者に主要な利害関係者を含めておけば、不具合が生じても、不満の噴出を一定限度以下に抑えるといった緊張緩和効果を見込めるからである。

このように、科学技術と社会の界面で発生する正解のみえにくい争点について、さまざまな利害関係者を関与させつつ物事を決めてゆくのは大変便利な手法といえる。同時に、そこには、少なくとも二つの問題点が潜む。一つは、そのような便利さをもつ参加者満足度という代理指標が専門知の評価基準へと転用されかねないことである(参加型試みに従事する集団の没批判的業界化)。そうなった場合、科学技術と社会の界面で発生する争点は、学問的な妥当性を評価するという基準と無縁に〈決着〉することになりかねない。たとえば、正解が未知の場合でも、専門知は相当程度の手がかりを与えてくれる。そうした手がかりを考慮しないまま〈決着〉することは、産湯と一緒に赤ん坊を流してしまう事態に近い。いま一つは、協働する利害関係者に代表性が存在しない場合、当事者にとっての問題解決とは異なる方向へ利益誘導がなされる可能性が常に開かれていることである。たとえば、放射性廃棄物の処分地を「社会的に」決定する際、特定の利害関係者によって交付金による財政再建の方向へと結果が誘導されるようなことが起こるとすれば、それはそうした利益誘導に近い。

科学、あるいはより一般に学問とは、人類が久しく守り育ててきた公共財の一つである。そこには、浮世の利害状況がたとえどうであれ、道理をあくまでも追究してやまぬ普遍主義的基準へ向けて突き抜けるような伸びやかな知性や精神を宿している。あるいは、特定の利害関係者にとって都合のよい事実もそうでない事実も等しく解明してやまぬ厄介な存在と映るかもしれない。だが、じつはその点にこそ社会から信頼を寄せられるゆえんがある。科学や学問が普遍主義的な志向から離れるようなことがあるとすれば、それはさしずめ公海上に不正確な航路標識を放置するに等しい、危険なふるまいである。

科学技術と社会の界面で発生する問題は、何が正解であるかにわかには判断しにくいことが普通である。そのような状況で、専門知と市民参加の適正な関係をその都度模索し続けることが求められている。そのためには、科学技術と社会の界面に登場する特定の利害関係者の見方や個人の体験を一般化したり、希望的観測を喧伝することにはゆめゆめ慎重であることが求められる。その上で、科学技術と社会の関係を事実に即して可能なかぎり系統的に分析し、その結果を万人に提供することが求められる。どのようにしてか。一つは、科学社会学によって。その展開の様子を3章で改めて述べたい。

 

[1] 松本三和夫『知の失敗と社会』2002、岩波書店、p. 100。