2.5 言語(ことば)の獲得と使用 -能力の拡張-

他の動物にはみられない人間の大きな特徴の一つとして、言語の使用がある。動物の中には、ミツバチのダンスをはじめとしてコミュニケーションの手段をもつものもあるが、人間の言語(以下、単に「言語」と呼ぶ)は動物のコミュニケーション手段とは質的に異なるものであると考えられている。「人間とは何か」という問いを考えるときに、言語の性質を考えることが重要になる所以であり、1950年代以降の現代言語学を牽引してきたノーム・チョムスキーは、言語という窓を通してヒトの心を探究することの重要性を説いている。なお、一般に言語には話し言葉と書き言葉とがあるが、生物としてのヒトの言語能力を考えるときには、話し言葉に焦点を当てる。書き言葉をもたない言語は多く、「人間が誰しももつ言語能力」は話し言葉の能力だと考えられるからである。

 

2.5.1 言語能力とはどのようなものか

人間が自分の言語(以下「母語」と呼ぶ)を話すときには、頭の中で精緻な規則体系が働いている。話している本人は、自分がどのような規則を使っているのか意識していない。いわば「無意識のうちに獲得・使用される知識」である。

たとえば、「親であるカエル」が「親ガエル」となるように、二つの語を結びつけると、二番目の語の初めが濁音に変化する現象(連濁)がある。「親+カエル」は親ガエルであるが、「親+クジラ」では連濁は起こらない(「親グジラ」は明らかにおかしいという直感を、日本語話者であれば誰でももつ)。濁音が連続するのが理由だという感じがするかもしれないが、「ウサギ+小屋」では連濁が起こって「ウサギゴヤ」となる。実際には、結びつけられる二番目の語の中に濁音が含まれていると連濁は起こらないという規則がある(したがって、濁音が連続しなくても、「生+卵」で連濁は起こらない)ことがわかっている。このような規則を日本語の母語話者が意識的に知っているわけではないが、この規則が頭の中で働いているからこそ話者は「親グジラ」がおかしいと判断できるのだと考えられる。さらに、この規則は見たことのない語に対してでも働く。たとえば、想像上の動物が「サグ」と名付けられたとしたら、「親+サグ」では連濁は起こらないし、「サグ+小屋」では連濁が起こることを、日本語話者であれば誰でも判断ができる。つまり、このような言語に関わる規則は、話者が無意識のうちに駆使しているのである。

このような現象は発音に関する規則にとどまらない。「1日おきに電話をする」では2日に一度なのに、「24時間おきに電話をする」だと毎日になるのはなぜか、「小指だけを曲げられない」と「小指だけが曲げられない」の意味が違うのはなぜか、など、どのような規則が働いているのか判然とはしないけれども、母語話者がその違いを即座に判断できる、すなわちその背後にある規則を無意識のうちに駆使していると思われる例は、枚挙にいとまがない。このように、言語能力は、人間が無意識のうちに獲得して使用している知識の体系であり(以下、「文法知識」と呼ぶ。この場合の「文法」は発音や意味などを含む広い意味で使われていることに注意されたい)、言語学の研究によって、これが非常に複雑で精緻な体系であることがわかってきている。

このような文法知識の体系は、どのような言語にも等しく見られる。特定の地域で話されるいわゆる方言や、特定の階級で話される階級方言、また、しばしば言葉の乱れとみなされる若者言葉、さらに聴力障害のある聾の人々が用いる手話など、いずれもそれぞれの文法体系をもっている。1960‐70年代のウィリアム・ラボヴらによる米国における社会言語学の大きな成果の一つは、ブラック・イングリッシュと呼ばれ、不完全な、あるいは乱れた文法をもつ階級方言とみなされていた言語[1]が、実はひじょうに複雑で精緻な文法体系-いわゆる標準英語とは異なる文法体系-をもっていることを詳細なデータ分析に基づいて示したことであった。また、日本語の言葉の乱れとみなされがちな「ら抜き言葉」も、五段活用の動詞に存在する可能形(「読める」)と受身形(「読まれる」)の区別を一段活用の動詞にも拡張する(可能形「食べれる」と受身形「食べられる」)方向の文法体系の変化と捉えることができる。言い換えれば、言語学の発達によって、「正しい」あるいは「すぐれた」言語と、「乱れた」あるいは「劣った」言語というような区別は、科学的にみればまったく無意味だということが明らかになっているのである。

なお、聾者の用いる手話について補足しておく。手話にはアメリカ手話、日本手話などさまざまな言語があるが、同じ地域で話される音声言語(英語や日本語)とはまったく異なる体系をもった言語である。ジェスチャーと同じようなものとみなされがちであるが、音声言語と同様の複雑な文法体系をもつという点で、ジェスチャーとはまったく異なる。手話話者の失語患者の研究では、左半球の損傷で手話失語が起こること[2]、手話を理解できないけれども一般のジェスチャーやパントマイムは理解できるという症例が観察されることから、手話はジェスチャーとは異なり、音声言語と同じ脳内処理を受けていることが示されている。当然のことながら、幼時から手話が用いられる環境で育った子どもは手話を母語として獲得する。

 

2.5.2 言語能力はどう獲得されるか

このような複雑な文法体系を、人間は誰でも生後7~10年ほどの間に獲得する[3]。また、この時期を過ぎてから言語に接すると、母語としての文法知識の体系を獲得することが困難であると言われる。つまり、言語獲得に臨界期があるということである。では、子どもはどのようにして文法体系を獲得するのだろうか。母語獲得のメカニズムについてはまだわかっていないことも多いが、いくつかのことが判明している。

音の区別については、言語獲得の過程は、いわば不要な区別を切り捨てていく過程であることがわかっている。たとえば、英語で区別する[r]と[l]を日本語では区別しないというように、どのような音の区別を用いるかは言語によって異なっている。実験によって生後6~8か月の乳児は、母語では用いない音の区別もできるのに対し、10~12か月ではその能力を失い、母語で用いる区別だけができることがわかっている[1]。どのような言語にも対応できる「汎用」の能力をもって生まれるが、10~12か月の間に自分の環境(この場合は母語)に適するように調整していくと言ってもよい。

言語の獲得のうち、語彙獲得は基本的に周囲で用いられている表現を記憶していく作業であると考えられる。一方、文法知識は、周囲で話されている言葉から、何らかの一般化あるいは規則性を抽出する作業だと考えてよい。そして、子どもは、このような作業には驚くべき能力を発揮する。たとえば先述の連濁なども、子どもは耳にする言葉の蓄積の中から、無意識のうちに規則を取り出していると考えられる。子どもの言語獲得が、単に聞いたことのあるものを覚えていくという過程ではないことは、過剰一般化として知られる現象から明らかである。たとえば、英語の動詞の過去形には、いわゆる規則活用の形と不規則活用の形があるが、本来不規則活用をしなければいけない動詞を子どもが規則活用させてしまう現象が知られている。holdの過去形をholdedと言ってしまう(正しくはheld)などである。一般的な規則-この場合は規則活用-を、本来当てはめてはいけないところにまで過剰に適用することから、過剰一般化と呼ばれる。日本語では過剰一般化の報告は少ないが、「そんなもの投げちゃだめでしょ」と叱られた子どもが「投げたんじゃない、投がったんだ」と言ったという逸話がある。「曲げる・曲がる、当てる・当たる」などに見られる他動詞と自動詞の対応を過剰に一般化し、「投がる」という自動詞を作ったものと考えられる。holdedや「投がる」という語形は、子どもが耳にしている言葉の中には含まれないはずであるから、子どもがこれらの語形を産出することは、言語獲得が単なるデータの蓄積(記憶)だけではなく、そこから一般化(規則性)を抽出する過程を含むことを示している。

じつは、子どもは、周囲で使われている言語を「獲得」するだけではなく、周囲に完成した文法体系がない場合には、自力で文法体系を作る力すらもつことを示唆する研究成果も出されている。もちろん、周囲に完成した文法体系がないという環境は、ふつう存在しない。母語の異なる人々が集まった移民社会などで新しい言語(クレオールと呼ばれる)が誕生する過程で、子どもが文法体系の確立に寄与したのではないかと考えられてきたが、近年、ニカラグア手話の誕生が科学的な手法で記録され、注目を集めている。1970年以前のニカラグアには聾者のコミュニティが存在せず、したがって手話もなかった。70年代末に聴覚障害の子どもを集めて教育する学校が開設され、そこで子どもたちがコミュニケーションの手段として手話を作りあげた。最初は、ホーム・サインと呼ばれるジェスチャーであったと考えられるが、わずか30年足らずで複雑な文法体系をもつ手話として確立したと言われる。とくに興味深いのは、手話を使用し始めた年代によって使用者を二世代(1983年以前の入学者とそれ以後の入学者)に分けた場合、特定の文法規則を第二世代だけが用いていることが実験によって明らかになった点である[2]。ジェスチャーでコミュニケーションを始めた年長の世代が用いない文法規則を第二世代が用いていることから、文法規則をおとなが作って年少の世代に伝えたのではなく、子ども自身が文法体系を作り出したことが示唆されるのである。

このような子どもの能力をみると、人間は言語を操るべく生まれついていると考えざるをえない。ピンカーが言語を「本能」と呼ぶ所以である。

 

2.5.3 人間の言語はどのような特徴をもっているか

言語は、形(音声、あるいは手話の場合には手の形や動き)と意味とを結ぶ記号体系であるが、まず意味(記号で表しうる内容)についてみると、その時、その場の事柄以外の内容を伝えられることが、言語の大きな特徴である。昨日友人の家で起こったことを今自分の家で述べることが困難な言語はないし、実際に体験したわけではないこと、たとえば現代の日本人が聖徳太子について述べるというようなことも容易にできる。

また、それまでに一度も聞いたことのない文を作ったり、理解したりすることができる創造性も言語の特徴である。実際に聞いたことのある文だけで毎日会話をしている人はいないであろうが、たとえば現実には存在しえないSF的な状況を初めてみても、それを言語で記述でき、それを理解できることからも、言語の創造性がわかる。

形の面では、階層的な構造をもつことが大きな特徴である。音声言語で言えば、文は音(以下、便宜的にローマ字で表す)の列である。日本語で、nikugakataiという文とnikugakaraiという文で意味が違うとわかるのは、日本語話者が[t]と[r]の音を異なる音として区別するからである。同時に、これらの文の理解は、文をnikuga|katai、nikuga|karaiのように単語に分割して初めて可能になる。[t]と[r]の違いがわかったとしても、このように正しく単語に分割できなければ意味はわからない。つまり、音(術語としては音素と呼ばれる)という、それ自体意味をもたない単位と、単語という意味をもつ単位[4]との両方のレベルで、話者は文を分割して理解していることになる。

さらに、文の理解は単語に切り分けるだけでは終わらない。同じ単語が同じ順序で並んでいても、構造が異なることによって意味が異なる場合がある。たとえば、「黒いジャケットのボタン」は、黒いジャケットに付いているボタンという解釈(ボタンの色は黒でなくてもよい)と、ジャケットに付いている黒いボタンという解釈(ジャケットの色は黒でなくてもよい)とがある。これは、「黒い」「ジャケットの」「ボタン」という三つの要素が作る構造の違いによると考えられる。(a)のように、まず「黒いジャケット」がひとまとまりになるような構造では前者の解釈、(b)のように「ジャケットのボタン」が先にひとまとまりになるような構造では後者の解釈になるのである。

このように、階層的な構造をもつことによって、同じ単語列でも複数の異なる意味を表すことが可能になる。聴き手の側から言えば、上述のような階層構造を理解しているからこそ、このような単語列の意味を理解することができるのである。

言語の構造上の大きな特徴は、ある要素が、自分と同じタイプの要素を自分の中に埋め込むことができること(再帰性、回帰性、反復性などと呼ばれる)である。典型的な例としては、文の埋め込みがある。「隆がジャケットを着た」は一つの文であるが、これをさらに別の文に埋め込むと「隆がジャケットを着たと次郎が言った」のような文を作ることができる。これを「隆がジャケットを着たと次郎が言ったと弘子は思っていた」のようにさらに埋め込むこともできる。理論的にはこの埋め込みは際限なく行うことができ、そのため、有限の数の要素(単語)を用いて、無限の数の文を作ることができる。

また、文中で遠く離れた要素どうしを関連づけなければならない場合がある。たとえば、「どの本を弘子は隆が図書館で借りたと思ったのですか」という疑問文において、「どの本」は埋め込まれている文「隆が図書館で借りた」の「借りた」の目的語である。「どの本」と「借りた」の間に多くの単語が挿まれているというだけでなく、間に埋め込み文の境界があるという意味で、これは「離れた」関係であるが、このような関係は常に可能なわけではない。たとえば、「どの本を弘子は隆が借りた図書館に行ったのですか」を「弘子は隆がどの本を借りた図書館に行ったのですか」の意味に解釈することはできない。どういう場合に可能であるかは、階層構造上の性質によって決まることがわかっている。

このように、人間は階層構造をもつ言語を操り、聞いたことのない文を産出・理解する能力をもち、「今・ここ」という現在時に縛られない内容を伝えることができる。このような特徴をもった言語の使用が、文化の継承や抽象的思考などの「人間らしさ」を飛躍的に高めることに一役買ったことは、間違いのないことであろう。

 

2.5.4 言語はどのように多様か

ここまでは、すべての言語にあてはまると考えられる普遍的な性質を、日本語の例をみながら述べてきた。しかし、もちろん、言語ごとに違う性質も多くみられる。言語がどのような多様性をみせ、その中にどのような普遍性が見出されるかは、言語学の大きな課題であり、まだわかっていないことも多い。ここではいくつかの例にしぼって、言語の多様性の一部を紹介する。

おそらく、誰の目にも明らかな言語間の相違は語順であろう。英語は動詞の後に目的語が来る(SVO語順)が、日本語では逆に目的語の後に動詞が来る(SOV語順)。じつは、動詞と目的語の関係だけでなく、日英語の語順は(主語を除いて考えると)以下に示すように、基本的に鏡像関係にあることがわかっている。

このように、語順が言語によって異なるといっても、無秩序に多様性が許されるわけではなく、何らかの原則が働いていると考えられる。

言語の類型を整理する際によく用いられる分類の一つに、膠着言語・総合的言語と孤立言語・分析的言語の区別がある。日本語は代表的な膠着言語であり、英語は分析的な性質が強い言語であると考えられている。文法関係を表すのに、一語の中に接辞などの形で取り込む傾向をもつ言語と、独立した別語として表す傾向の強い言語との区別として捉えることができるが、文法関係以外にも広汎にこの傾向の相違がみられる。たとえば、「こんな本を読ませられたくない」という文の「読ませられたい」は、「読む」という動詞に、使役を表す「させ」、受身を表す「られ」、願望を表す「たい」という三つの接尾辞がついて一語動詞となっている。同じことを英語で言おうとすれば、I do not want to be forced to read such a bookのように、願望のwant、受身のbe、使役のforceなどが独立の語として現われる。このような日英語の違いは、体系的に観察される。

このような言語間の相違は、それぞれの言語が話される文化やその言語を話す人々の思考・認識とどのような関係にあるのだろうか。これは、大きな論争となっている点の一つである。たとえば、その文化に存在が知られていないものの名前は言語にも存在しないというような意味で、語彙に文化の相違がある程度反映されることは間違いないだろう。また、色をどう区別して名づけるかという言語の相違が、色の認識に影響を与えるという実験結果の報告もあり、語彙の相違が文化や認識の仕方に影響を与える可能性もある(ただし、つねにそのような影響が観察されるわけではない)。一方、文法体系や言語活動の様式がどのように文化や思考と関係するかは、難しい問題である。たとえば、日本語の文法体系では文の内容が否定なのか肯定なのか、あるいは話し手がその内容を断定するのか(「〜である」)推測しているだけなのか(「〜であろう」)などが文末までわからない。また、日本語では、文末を言い切らずに言葉をにごして終わらせるという言語の特徴もみられる。このような特徴を、たとえば「日本人は白黒はっきりさせるのを好まない」という「国民性」と結びつけて捉えようとするような日本人論・日本文化論も散見されるが、このような議論は往々にしてに科学的な根拠を欠いている。韓国語は、語順も文末を言い切らない特徴も日本語と類似しているが、韓国と日本では「国民性」は大きく異なるという指摘もある[3]。いずれにせよ、言語と文化や思考・認識の関係を論じるには、どのような形で科学的な検証が可能であるのか、慎重な検討が必要である。

 

[1] 近年はAAVE(African American Vernacular English(アフリカ系アメリカ人の日常言語))と呼ばれることが多い。

[2] 周知のように、音声言語を処理する中枢は右利きの話者では左半球にあることがわかっており、左半球の損傷によって失語症状が起こる。

[3] 何らかの発達障碍などがある場合に、言語能力の発達が遅れたり、「健常」の子どもと異なっていることもあるが、そのような場合以外、子どもは誰でも同じように母語の文法知識を無意識のうちに獲得する。語彙は成人後も増えるが、文法能力については、ほぼ7~8歳(遅くとも10歳)くらいまでに完成していると考えられる。

[4] 正確には、単語よりも小さな単位で意味を持つ要素があり(「暖かさ」の「暖か」や接尾辞「さ」など)、形態素と呼ばれる。