3.1 社会科学の視点

自然科学に物理学や化学、生物学、天文学などのさまざまな分野があるように、社会科学にも経済学、社会学、政治学、人類学、歴史学などのさまざまな分野が含まれている。この節では個別分野それぞれの内容について紹介することはしない。社会科学の個々の分野を教科書的に並べるのではなく、個別分野を超えた社会科学一般について、多くの方々に知ってほしいと私たちが考えている「社会科学の視点」について述べることにする。すなわち、社会科学を使って社会を見たり、社会現象について説明することは、常識や直感を使って社会現象を説明することと何が違うのかについて述べるのが、本節の目的である。

 

3.1.1 行為の意図性と意図せざる結果

社会科学そのものについての説明を始める前に、社会科学についての知識をもたないで政策を実施したために起こってしまった失敗の例を紹介しておこう。江戸時代の「株仲間禁止令」の失敗についてである。

江戸時代に株仲間というものがあったことは、中学や高校の日本史で学んだはずだ。江戸時代の商人が組合を作って、自分たちの組合の仲間にしか商売を許さない、自分たちの仲間ではない人々を取引から締め出すという仕組みである。この仕組みは仲間以外の商人による自由な競争を妨げることで独占的な利益を確保し、物価を勝手に吊り上げる仕組みだということで、水野忠邦は天保の改革の一環として株仲間の解散を命じた。

水野忠邦は、物価の上昇が一部の悪徳商人の陰謀の結果であるという、無私の行いを正しいとする武士の倫理的「常識」に従って、この政策を、物価の高騰を抑え一般大衆の生活をよくするための正しい政策、一般大衆のためになる政策だと考えた。自己利益を追求する企業や政治家が社会問題を生み出しているという、現代のマスメディアをにぎわせている「常識」と同じ種類の発想だと言ってよいだろう。

ところがこの株仲間解散命令は、とんでもない結果を生み出してしまった。というのも、株仲間が解散されてしまうと、日本国内の物流が一斉に止まって、大不況が起こってしまったからである。そのため、しばらくすると株仲間禁止令は撤回せざるをえなくなってしまった。その後、物流は回復したが、株仲間禁止令が生み出した経済の混乱は、黒船の来航の騒ぎも重なって、幕末の混乱を生み出すきっかけになったのである。

さて、悪徳商人が結託して物価を吊り上げる仕組みとして考えられた株仲間の禁止が、このような大きな混乱を招いてしまったのはなぜか。それは、株仲間の存在が江戸時代の物流を可能としていたからである。

このことを理解するためには、社会科学の知識が必要となる。話を単純化して説明すると、次のようになる。商取引にはいつも騙されて損をする可能性が伴う。それにもかかわらず、商取引に携わることができるのは、騙されたときに裁判に訴えて損失を回復できるからである。逆に言えば、騙されてもそのまま泣き寝入りする以外に方法がない場合には、そんな取引に関わろうと思う人はいないはずだ。

実は江戸時代の取引は、騙された際の損失回復が非常に難しい状況下で行われていた。それは、江戸時代には商取引に関する訴えを裁くための裁判制度が整っていなかったからである。江戸時代の商人はいくら騙されても、お上に訴えて損害を取り戻すことができなかった。そこで商人たちが、騙されて酷い目にあうことがないようにと考え出したのが株仲間の仕組みである。確かに、株仲間に入っていないと取引に加わることができないという仕組みは排他的で、商人の特権的な利益を守っている。しかしながら、この仕組みは同時に、自分たちの仲間を騙す悪徳商人を株仲間から追放することで、裁判制度が整っていない状態でも商売が円滑に行えるような条件を何とか整えていたのである。

このような効果をもつ株仲間という制度を奪い去ってしまえば商取引が不可能となってしまうのは、社会科学の目からは明らかである。取引を可能とする条件についての社会科学の知識をもたないで、物価の高騰は悪徳商人の談合が生み出しているという思い込みにもとづいた政策は、大きな混乱とみじめな結果を生み出してしまった。

この株仲間の例は、社会科学そのものが充分に発達していなかった江戸時代の話であり、社会科学の知識を使わないで政策を実施したからといって、そのことで水野忠邦を責めるのは少し酷だろう。しかし同じような間違いは、現代の社会でもよくみられる。その一つの例として、「借地借家法」がある。

借地借家法は、歴史的には第二次世界大戦中にできた法律であり、その意図は横暴な家主から借家人の居住権を守ることにあった。具体的には、家主が契約終了時点で借家人との契約更新を拒絶するには、家主の側にひじょうに強い理由(「正当事由」)がなければならないというものである(たとえば、家主が自分で使用したいから立ち退きを希望するという「自己使用」はほぼ100%、「正当事由」として認められない)。この法律は、一見したところ、借家人の権利を守る良い法律のようにみえるが、かえって借家を必要としている人々自身の利益に反する結果を生んでしまった。

話はひじょうに単純である。もし、あなたが家主であるなら、この借地借家法の下でどのような物件を供給しようとするだろうか。広くて大きなファミリー用の物件と、小さい単身者用の物件のどちらを供給するだろうか。きっと、後者の小さい物件を供給しようとするに違いない。なぜなら、大きいファミリー用の物件を選ぶ人はおそらく長期の居住を覚悟している人たちだから、いったん、このような人たちに家を貸してしまうと、いざというときなかなか立ち退いてもらえないはずだからである。それに対して、小さい物件を選ぶ人は契約期間の更新時に自発的に立ち退く可能性が高い、移動性の高い独身者である。したがって、借地借家法の下ではワンルーム・マンションなどの供給は多いが、ファミリー向けの物件の供給は少なくなるはずである。実際のところ、このような法律のないフランスやドイツと比べると、持ち家の一戸あたりの床面積は日本のほうが広いのに、貸家の一戸あたりの床面積は著しく狭いのである[1]。

借地借家法が既存の借家人の権利を守っているのは間違いがない。しかし、最も住居を必要としているのは、単身者ではなく、子どものいる家庭であろう。そのような潜在的借家人への住宅供給を阻害しているとしたら、この法律は当初の意図通り、借家人の権利を守っているとは言えないだろう。

以上の二つの例は、為政者の政策や法律がその意図に反する「副作用」を生み出した例であるが、何もこれは為政者に限られたことではない。たとえば、自分がお金を預けている銀行が倒産するかもしれない、という噂をあなたが聞きつけたとしよう。このときあなたはできるかぎり早く自分の預金を回収しようと「意図」し、実際に銀行に駆けつけ、貯金を回収しようとするだろう。他の預金者も当然、同じように行動するので、この取り付け騒ぎを乗り切れなかった銀行は実際に倒産してしまい、場合によっては、あなたは預金を回収できない羽目に陥ってしまう(このような銀行の破産例は実際にたくさんある)。人々が預金を回収しようと思ったがために、人々は預金を回収できなくなってしまったのである。

株仲間禁止令、借地借家法や取り付け騒ぎの例をみれば、なぜ社会科学が必要なのかが理解できるだろう。それは、ある行動をとる個人の意図と、その行動が生み出す結果とが必ずしも一致しないからである。ある結果を望む人々がとる行動が、必ずその目的に向けて有効な結果を生み出すのであれば、私たちにとって必要なのは(何を望むかを決定するための)倫理や判断だけであって、社会科学は必要とされない。

個人の経験や思いつきだけにもとづいた政策が政策立案者の意図に反する「副作用」を生み出したり、自分の利益を守るためにした行動がかえって自分の利益を損なってしまったりすることがあるのは、個々の人間の行動が複雑なかたちで相互に影響を与え合いながら集積されることで、マクロの社会現象が生まれるからである。人々が互いに影響を与え合いながら行動することで社会全体としてどのような結果が生まれるかを明らかにすることが、社会科学の役割である。次節から、人々の行動が社会の中で集積される過程で生じている結果やそのプロセスを分析するという社会科学の目的を達成するために、社会科学がどのような視点をとっているのかを説明したい。

 

3.1.2 人間と社会を科学する

前節では株仲間禁止令と借地借家法の例を使って、社会科学の知識を用いない政策決定が、望ましくない結果を生み出す場合を紹介した。しかし読者の中には、「社会科学なんて知らなくても、豊富な経験に裏打ちされた洞察力の持ち主であれば、より適切な政策を立案できるのではないか。必要なのは科学ではなく、豊富な経験と洞察力なのではないか」と思った方も多いのではないだろうか。

実際、水野忠邦による株仲間禁止令に対しては、当時から反対論が根強くあり、そのために結局は禁止令が撤回されることになった。そうした当時の反対論者は、社会科学の理論と知識にもとづいて反対論を展開したわけではなく、彼らの経験にもとづく人間観と社会の働きについての直感的理解にもとづいて反対していたのである。この点では、反対論者も水野忠邦も、自分自身やまわりの人たちの経験にもとづく洞察を政策の根拠としていたという点では同じである。両者が異なっていたのは、経験の質と量であり、また経験にもとづく洞察力だと言えるだろう。

歴史上の偉人と言われている人たちの多くは、こういった洞察力に優れた人たちだったのだろう。そのため必要な時点で適切な行動をとることができた人たちである。しかしその一方、歴史は、重要な時点で適切な行動をとることができなかった人々の例に満ちている。歴史上の出来事に直面した人々のとる行動や政策の適切さが個人の経験と洞察力に依存しているとしたら、政策の成功と失敗は運命の力に完全に委ねられてしまうことになる。政策が洞察力のある人々の手で作られればよいが、経験と洞察力に欠ける人々の手によって作られれば、人々を待ち受けているのは悲惨な運命である。

このような状況に繰り返し直面してきた私たちは、先人たちの洞察力を自分のものとするための努力を続けてきた。すなわち、「歴史に学ぶ」という言葉に示されているように、過去の出来事のいわば事例集を繰り返し学ぶことで、個人的な経験を超えた洞察力を身につけることを試みてきた。この試みこそが、社会科学の前史だと言えよう。

現在の社会科学がこの社会科学前史と異なるのは、社会や人間についての洞察、つまり知識の積み重ねを可能とする科学的な方法や手続きの使用にある。万巻の書を読破し人間と社会についての偉大な洞察をある人が手にしたとしても、その洞察の上に新たな知識を付け加えることが可能な手続きが存在していないかぎり、その洞察はその人一代にとどまってしまう。これに対して、科学がそれ以外の知的な営みと異なる最も重要な点は、知識の積み重ねを可能とする手続きに基盤を置いている点である。

科学の発展にとっての知識の積み重ねの重要性を述べた有名な言葉に、「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」というニュートンの言葉がある。巨人とはそれまでの科学的な知識の積み重ねであり、科学者ニュートンは、その積み重ねを利用することではじめて、新しい知識を生み出すことができたのだ。そうニュートンは述べているのである。

この意味で科学とは、知識を百科事典風に寄せ集めるだけではなく、知識を巨人のように体系立てて組み合わせるための方法だと言うことができる。そして、人間と社会に関する知識の組織的な蓄積を可能とするのが、科学的な手続きに従って営まれる知的活動としての社会科学である。そのために重要なのは、データの収集と理論構築に際しての科学的な手続きである。これがなければ知識の積み上げは不可能であり、いかにすぐれた洞察でも、それ以上の洞察をその上に積み上げることができない。

次節では、社会科学の視点を理解する前提として、人間社会について科学的な理解を得るためには、自然科学と同じく、どのような社会的事実が起こっているのかについて、正確なデータを収集することが何よりも大切であることを論じる。その後、適切な方法で収集された正確なデータを用いて、個人間の複雑な影響関係を通してマクロな結果が生成されるプロセスの分析に際して、社会科学がどのような視点をとっているかの説明に進むことにする。

 

3.1.3 社会現象についての事実の収集

科学が他の知的営為と異なるのは、知識の積み重ねが可能なかたちで科学的営為が進められているからである。そのための一つの基準が再現可能性である。ある人が「事実」として記述した社会現象が、他の人が同じ手続きを使って調べてみたところ、その内容が違っていたとすれば、後に続く人たちはどちらの「事実」をもとに知識を積み上げればよいのかわからなくなってしまう。そうなれば、知識の積み重ねは不可能となる。

そのため社会科学を含め科学の発展のためには、データ収集のための手続きを明確化し、他の人たちが同じ方法を使ってデータ収集をすることができるようにすることが、最低限のマナーとなっている。この手続きがしっかりしていれば、いくらデータを捏造しようとしても、他の人が調べればそのデータが間違っていることがいずれは明らかになるはずである。そして、このような手続きを経て定着した知識は、新たな知識を生み出すための確実な礎を提供することができる。ただし、社会科学においては、きちんとデータ収集をすること自体がひじょうに難しい。ここでは、データ収集に際して踏まえておくべき代表的な心構えを指摘しておこう。

【直感や個人的な経験に頼ってはいけない】

私たちは個人的な経験を通して、また新聞やテレビなどのマスメディアを通して、社会で起こっている出来事や現象について、いろいろな知識をもっている。そして多くの場合、個人的な経験を通して知っていることや、信頼できる新聞やテレビなどで伝えられることを「事実」として受け入れている。しかし、社会について事実だと思っていることの中には、きちんとしたデータの裏づけを欠くものが多い。

その一つの例として、近年になっての青少年による殺人や凶悪犯罪の増加という「事実」についてみてみよう。青少年による殺人や凶悪犯罪の増加は、本当に事実なのだろうか。そのためには、各種の統計データを見る必要がある。そこで、1984年から1999年までの未成年の殺人犯検挙人数を10歳から19歳の少年の人数と比較した、10万人あたりの比率を示したのが図6である。

この図は、近年になって少年による殺人が急激に増加の傾向を示しているようにみえる。しかし、少年による殺人率の年次変化の範囲を拡大し、終戦直後の1946年から2004年までを示した図7を見ていただきたい。この図からは、全く違う結論が得られるだろう。日本における少年による殺人は戦後1980年ごろまで着実に減少し、その後は低い水準で安定している、という結論になるだろう。

この例は、個人的な経験や実感、あるいはマスメディアの提供する知識を通してみた社会の現実が、実際のデータと大きくかけ離れることがあることを私たちに教えてくれている。いくら洞察力のある人間が下した直感的理解であっても、直感はデータによって確認されなければならない。これは知識の積み重ねを可能とするための最低限のルールである。

図6 未成年の殺人犯検挙人数と少年人口(10~19歳)10万人当りの比率(短いタイムスパンでみた場合)

図7 未成年の殺人犯検挙人数と少年人口(10~19歳)10万人当りの比率(長いタイムスパンでみた場合)

 

【データ収集の手続きは標準化しなくてはいけない】

社会科学におけるデータ収集の重要性は上の例で充分に理解できたとすると、次に考えなくてはならないのは、データ収集のやり方についてである。データ収集のやり方がまずければデータをとる人ごとに結果が変わってしまい、その結果は再現可能ではなくなってしまう。そのようなデータをいくら集めても、新しい知識を生み出すための土台を築くことはできない。再現可能なかたちでデータの収集を行うことは社会科学に限らず科学の最低限のルールであるが、社会科学においてこのルールを確実に守ることは多くの困難な作業を伴っている。データ収集の過程に、再現可能性を妨げるさまざまな障害が潜んでいるからである。

ここで一つの例をみよう。図8は、「たいていの人は信頼できると思いますか、それとも、常に用心した方がよいと思いますか」(“Generally speaking, would you say that people can be trusted or that you can’t be too careful in dealing with people?”)という質問に対して、世界各国の人々が「たいていの人は信頼できると思う」と答えた割合、つまり、他人一般に対する信頼の程度を国ごとに比較した結果を示している。このグラフから、他人が一般に信頼できると思っている程度が、国によって大きく異なっていることがわかる。

図8 世界各国における他人一般に対する信頼の程度

このグラフの明るい色の6本の棒は、韓国人がこの質問に対して答えた割合が、調査によって大きく異なっていることを示している。黄色の棒グラフのうちの右の2本は同じ調査グループが2004年と2006年に調査した結果であり、この結果を見るかぎり、韓国人は世界の中でも他人を信頼する傾向がきわめて高いという結論になるだろう。これに対して左のほうの4本の棒グラフは、二つの異なる調査グループが1996年、2001年、2003年、2006年に実施した調査の結果であり、これらの結果をみるかぎり、韓国人は世界の中でも他人を信頼する傾向が最も低い人たちだという結論になるだろう。

これら三つの研究グループは、それぞれ調査研究に大きな経験をもった人たちで構成されており、またそれぞれ数百人から千人を超える規模のサンプルを使って得られた結果である。それだけの経験を積んだ研究者たちが大規模なサンプルを用いて調査した結果、同じ質問項目に対してこれだけ大きな結論の違いが出てしまったということは、社会科学におけるデータの再現可能性について慎重な注意が払われなくてはならないことを示すものである。

これらの大規模調査の結果が一貫しておらず、同じ質問項目を使ってほぼ同じ時期に調査が行われたにもかかわらず結果が再現されなかったのは、調査に用いられたサンプルの内容が異なっているとか、質問項目の翻訳の過程で微妙なニュアンスの違いが生まれ、それが質問に対する回答に反映されてしまったなどの可能性が考えられる。科学的知識として認められるためには、同じ方法を用いて同じ対象を観察した場合には、同じ結果が得られる必要がある。社会科学もこの意味での科学的知識の獲得をめざしているが、「同じ方法」を正確に再現することには、上に述べたようにサンプリングの偏りとか、翻訳上の微妙な表現によるバイアスなどを含むさまざまな困難が伴っている。このような困難を乗り越えるための多様な手法もまた、社会科学における重要な知識の一部を形成しているのである。

 

【測定したい現象を適切なレベルで測定できなくてはいけない】

再現性のあるデータが得られても、それは社会科学にとっての出発点にすぎない。いくら再現性があっても、意味のあるデータでなくてはならないからである。何が適切で意味のあるデータなのかについては、さまざまな側面に注意を払う必要があるが、ここでは、私たちが陥りやすい落とし穴について一つだけ紹介しておく。それは、測定したいと思っている現象とデータとのレベルのズレの問題である。

ここでレベルというのは、ある現象が個人を単位として生じているのか、それとも集団ないし社会を単位として生じているのかという、ある現象が生じる単位が個人、集団、社会といった違いを意味している。私たちが調べたいと思っている現象が生じている単位ないしレベルと、データを収集する場合の単位ないしレベルとが異なっている場合には、測定されたデータが調べたい現象にとって意味のないデータとなってしまう可能性がある。

データのレベルと現象のレベルのズレは、二つの方向で生じる可能性がある。一つは、現象が個人を単位として生じているのに、収集されたデータが集団単位、たとえば市町村単位であったり、県単位であったり、あるいは国単位であったりする場合である。この場合には、個人を単位とした場合にはまったく存在しない関連が、集団単位で収集されたデータに生まれてしまうという、「生態的誤謬」問題が発生する可能性がある。

たとえば日本における県別の離婚率と、県別1人当たりの書籍や雑誌の購入費の間には、かなり強い関係(相関係数0.62)がある。しかし、このことから、本をよく読む人は離婚しやすい、あるいは離婚する人は本をよく読むと結論することはできない。書籍購入費と離婚率はいずれも県別の平均であり、従ってこの関係は、本をよく読む人は離婚しやすいという個人レベルの関係を意味するのではなく、本をよく読む人が多い県には離婚する人も多いという事実を示しているからである。

本をよく読むということと離婚しやすいということとの間には個人レベルではまったく関係がなくても、本をよく読む人が多い県には離婚をする人が多いのは、実は、本をよく読んだり離婚をよくしたりする、20代後半から50代までの“本読み適齢期”の人たちや“離婚適齢期”の人たちが特定の県で多く、特定の県で少ないという、人口構成の県別の違いが生み出した結果である。本をよく読む人たちが本当に離婚しやすいかどうかを確かめるためには、県別データではなく、個人ごとのデータを収集する必要がある。

残念ながら政治や経済の現象に関しては、生態的誤謬に無自覚なまま、集団全体についてのデータにもとづいて個人の行動や考え方についての解釈や結論を引き出してしまうことが頻繁に起こっている。たとえば、定期的におこなわれるマスメディアの世論調査では「あなたは○○内閣を支持しますか」という質問がなされているが、この質問に対して「はい」と答えた人の割合を表す数字が前回の世論調査とほとんど変わらなかったとしよう。すると、一見したところ内閣に対する有権者の支持は「安定している」あるいは「落ち着いている」かのように思える。しかし、同一の内閣支持率が何か月も続いたとしても、内閣を支持する人々の構成が調査ごとに大きく変化した可能性は否定できない。もし「安定」や「落ち着き」という解釈が「前回の時点で内閣を支持すると回答したのと同じような有権者が、今回も変わらずにこの内閣を支持している」ということを意味するのであれば、個々の有権者がどう答えたかを詳しく検討しなければならない。そのためには、集団(この場合には日本)全体の集計データだけでは不充分である。

データのレベルと現象のレベルのズレは、また、逆の方向でも生じる可能性がある。つまり、現象そのものが集団を単位として生じているのに、データの収集を個人単位で行う場合である。たとえば、民主主義的な政治体制が個人主義的な考え方を育むかどうかという問題を考えてみよう。民主主義的な政治体制は集団(国)全体に当てはまる現象であり、その中の特定の個人にだけ当てはまるものではない。したがって、この問題に回答を与えるための適切なデータのレベルは国である。しかし国を単位とした調査を行うのはきわめて困難なので、場合によっては、一つか二つの国の中で調査を行い、個々人に民主主義を支持する態度と個人主義的な考え方をする程度を尋ね、その関係を調べることで、最初の問題に対する解答を求めることがある。しかしこの個人レベルでの関係は、必ずしも、民主主義制度がどのような影響を人々の間で育むかに対する適切な回答を与えてくれるわけではない。

 

【データはきちんと読まなくてはいけない】

私たちは新聞やテレビ、あるいは国会での論争の中で、ある社会現象がいかなる原因によって生み出されたのかという議論をよく耳にする。たとえば、なぜいじめが生じるのかという疑問に対して、子どもたちが思いやりの心や倫理感を失っているからだという議論がある。つまり、思いやりの心や倫理感の喪失がいじめの原因だという議論である。この議論が正しいかどうかを確かめるためには、先に述べたように、正確なデータを個人レベルで収集する必要がある。この議論に従えば、倫理感を失っているのも、いじめをしているのも、個々の子どもたちだからである。

さて、何らかの方法によって、各々の子どもの倫理感の程度といじめへの参加度を測定したとしよう。そして、倫理感を強くもっている子どもたちはいじめに参加しておらず、逆に、倫理感に欠けた子どもたちがいじめに加担している傾向にあるというデータが得られたとしよう(図9)。これらのデータが正確に再現性のある形で、しかも個人レベルで収集されていたとしても、この関係がみられたというだけでは、この二つの要素が相関しているという結論を引き出すには不充分である。その理由は、この相関関係がみせかけの相関関係(「擬似相関」)である可能性が残されているからである。

たとえば、教師の質や学校のおかれている環境などによって、学校間に荒れた学校ときちんとした教育のされている学校という格差が存在している場合には、荒れた学校で教育を受ける中で倫理感が育成されず、また同時に、教師の目が充分に行き届いていないためにいじめが放置されやすくなっている可能性がある。逆に、教師の指導が充分に行きわたっている学校では、倫理感の育成も進み、またいじめにも充分な配慮がなされているだろう。つまり、いじめの真の原因は倫理感の欠如ではなく、教育の質ややり方の違いだという可能性も考えられるのである。

もしこちらの考え方のほうが正しければ、荒れた学校ではそれぞれの子どもの倫理感が低く、またいじめに加担する場合が多くなり、きちんとした教育がなされている学校ではそれぞれの子どもの倫理感が高く、またいじめにも参加していないということになる。そうすると、多くの学校の子ども全体を一括して見渡した場合には、いじめと倫理感の欠如の間に関係が存在するようにみえたデータも、学校ごとにみると両者の関係がなくなってしまうはずである(図10参照)。逆に、いじめと倫理感の高低に関係があるなら、学校ごとでみた場合も全体でみたときと同様、両者の関係が観察されるはずである。

ある要素とある要素の間の関係が、真の相関関係なのかどうなのかを見極めるのは実はひじょうに難しい。相関関係が観察されたあとの吟味こそが必要だということに気をつけよう。

では、適切なレベルのデータを適切で再現可能な方法で収集し、ある現象と別の現象の間に相関関係を発見したとしよう。次に必要なのは、この相関関係が本当に因果関係を意味するかどうかを検証し、原因が結果を生み出すプロセスやメカニズムを明らかにすることである。

 

3.1.4 社会現象の適切な説明

社会現象の理解には、その背後にある原因を見極めるアプローチと、その現象を生み出すメカニズム(ないしは相互依存構造)を理論的に明らかにするというアプローチがある。この二つのアプローチはいずれも社会現象の科学的理解に際して重要な役割を果たしており、相互に補完しあうことで初めて社会現象を充分に理解することができるのである。

図9 全体でみた場合 二つの要素に相関があるように見える

 

図10 学校ごとにみた場合 二つの要素に相関がなくなる

【因果関係を見極めること―実験の役割―】

先の節で倫理感といじめが本当に相関しているのかを判断する場合に、教育の程度を一定にした上で、倫理感といじめの関係を確かめなくてはならないことを示した。この発想の根本には、「AがBの原因である」というためには、他の条件を一定にしたうえで「Aが起こるとBが起こる」だけでなく、「Aが起こらなければBは起こらない」ということが重要だという考えがある。

上述のように収集したデータの中に都合よく「倫理感が高い場合」と「倫理感が低い場合」が含まれ、かつ、他の条件(例えば「学校の荒れ具合」)まで一定に保つことができる場合には、統計的な分析方法によってかなりの程度まで因果関係を特定することが可能である。しかしながら、このような都合の良いデータが自然と得られることは稀である。したがって、ひとつの要因を除いて、他のすべての要因の効果を無視できるような二つの状況を人工的に作り、その結果を比較する作業(実験)が必要になる。そのために、近年の社会科学では、これまでの社会調査や統計データの分析といった統計的研究方法に加え、実験研究が用いられるようになっている。

社会科学において実験が果たす役割は、まず、上に述べたように、社会で起こっているさまざまな現象について、その原因を明らかにすることにある。それ以外にも、社会科学で用いられている実験には、実験室に社会制度のミニチュア版を作って、そこで人々が実際にとる行動や、制度のパフォーマンスを測定することを目的とした、シミュレーション型の実験がある。同時に、実験室にシミュレートした制度の一部を変化させ、その結果人々の行動がどのように変化するか、あるいは制度のパフォーマンスがどのように変化するかを観察するために実験が用いられている。たとえば、排出権取引のためのオークション・システムのミニチュア版を実験室に作り出す実験を行い、現在用いられているオークション・システムがバブルを生み出す可能性が大きいことを、このシミュレーション実験により予測し、排出権取引をコントロールする国際機関に対して警告を発した研究がある[2]。しかしこの警告が国際機関によって受け入れられる前に、バブルが実際に発生してしまった。この例は、社会科学における実験研究が実際の政策運営に対して有効に働く可能性を示す一つの例である。

このように、実験は、社会現象の背後にある因果関係を明確にし、制度やシステムのパフォーマンスを比較する役割を担っている。これらも社会科学における実験研究の重要な役割であるが、実験にはもう一つ重要な役割が期待されている。それは、次に紹介する相互依存関係モデル(ゲーム論的思考)の基盤にある、人間性についての理解を推進することにある。

 

【社会現象の生成メカニズムの理解―ゲーム論的な思考法―】

ある社会現象ないし出来事と別の社会現象ないし出来事との間の因果関係を見つけ出すことは、社会科学の発展にとって重要な作業であるが、因果関係の特定にとどまっているかぎりでは、本節の冒頭で紹介したような、誰も予想していなかった結果、つまり意図せざる結果がなぜ生まれるのかを明らかにしたり、常識だけでは思いつかない結果を予測したりすることはできない。このことを理解するためには、なぜ人々の行動が人々の望みや意図を越えたり裏切ったりする結果を生み出すのか、その根本的な原理を理解しておく必要がある。

社会科学にとって最も重要な事実は、人間は一人では生きていけないという事実である。私たちが生きていくためには、自分が必要とするさまざまな「資源」を他の人たちから手に入れないといけないからである。私たちが自分勝手に生きていくことができないのは、そうすると自分が必要としている資源を他の人たちから得ることができなくなってしまうからだ。この場合の資源とは、お金や食べ物、消費財などの見たり触ったりできる物質的資源だけではなく、愛情や思いやりといった心理的資源や、地位や尊敬といった社会的資源など、私たちが生きていくうえで必要とするすべてのものを含んでいる。私たちは自分ひとりでは生きられない、みながそれぞれ必要とする資源を提供しあって暮らしているという関係こそが、私たちが「社会」と呼んでいるものの中身である。

このことは、私たちの一人ひとりの行動が、何らかの形で他人の行動に影響を与え、そのことを通して自分自身に跳ね返ってくることを意味している。そして、この関係は一人ひとりの人間に必ずしも意識されているわけではないので、私たちは自分の行動が思わぬ結果を生み出してしまうことに気づいて、驚いたり後悔したりすることになる。私たちは多くの場合、自分の必要としている資源を他の人から提供してもらうことを目的として行動している。そしてその結果、自分の必要とする資源を提供してもらうことに成功する場合もあれば、失敗したり、思ってもみなかった結果になってしまう場合もある。

つまり、社会(ということは、人々の間にどのような関係が存在しているかという、人々の間の関係の総体)は私たちに、自分の意図した結果を戻してくる場合もあれば、自分が考えていなかった、望んでいなかった結果を戻してくる場合もある。そして、人々の行動が自分の意図した、自分が望んだ結果だけを戻してくるのであれば、私たちは社会科学を必要としない。その場合に必要とされるのは、何を望むべきかを個々の個人に教えてくれる学問である倫理学や哲学、文学といった、「人文学」と呼ばれている学問である。

私たちが社会科学、つまり社会についての科学的理解を必要とするのは、私たちの日常経験の積み重ねだけでは、なぜ、いつ、どのような状況で意図しない結果が生まれてしまうかを予想するのに不充分だからである。その理由は、自分の行動が社会の中で(ということは、複雑な相互影響関係を通して)生み出す結果を予測するためには、個々の人間の行動がまわりの人たちにどのような影響を与えるかを知ると同時に、そのような影響が集積されることで何が生じるかを知る必要があるからである。つまり、私たちの行動が意図せざる結果を生み出すのは、一人ひとりの行動が複雑なかたちでお互いの行動に影響を与え合っていて、そういった影響が積もり積もって一つの結果を生み出すからである。逆に言えば、社会を理解するということは、人々の行動が他の人たちの行動にどのように影響を与えるかについての複雑な関係を、一つひとつ丁寧に解きほぐし、説明していく作業であり、この作業こそが社会科学の役割なのである。

この作業には、①個々の人間が如何なる原理に基づいて行動するかを明らかにする作業、②そこで明らかにされた原理に従って行動する人間が周囲の人間に影響を及ぼしあう結果、いかなる結果が生じるかを明らかにする作業、の二つが含まれている。このうちの第2の作業において、ゲーム理論が果たす役割は大きい。ゲーム理論とは、ある原理に従って行動するエージェント(個人、あるいは動物の個体)が他のエージェントとの間に依存関係をもつとき(つまり、あるエージェントの行動が他のエージェントの得る結果に影響を与えるという関係があるとき)に、それぞれのエージェントが自分の行動原理に従って行動した結果、全体として何が生じるかを分析するための理論である。

株仲間を廃止する政策が為政者の意図に反した副作用を生み出した理由を説明したときも、じつはこの①と②の作業を踏まえたうえで議論していたのである。そこでは、なるべく自分の利益を多くしようという行動原理にもとづいて行動している商人たちをエージェントと想定した(これが①にあたる)。そして、この原理にもとづいた行動が、株仲間があった場合には、お互いがお互いの商取引で騙したりはしない(騙すと株仲間から排除されて商売ができなくなるから)という共有期待のもとで問題なくまとめあげられ、社会全体の物流が円滑に維持されていた。それに対して、株仲間がなくなった場合には、お互いがお互いに騙されるのではないかという疑心暗鬼に陥り、商人は自己利益を守るために商取引を控えて、社会全体の物流も寸断されてしまったのである(以上が②にあたる)。

ゲーム理論が社会科学にとって重要なのは、個人の行動が集積され、意図せざる結果を生み出すプロセスを分析するための有効な理論的道具だからである。ただしゲーム理論自体は、そもそもエージェントにどのような行動原理が具わっているのかを明らかにすることができないため、エージェントすなわち個々の人間の行動原理を明らかにするための実験研究を必要とする。具体的に言うなら、通常のゲーム理論では自己利益最大化がエージェントの行動原理として想定されている。確かにそのような想定が妥当である場合(たとえば株仲間を説明する場合)もあるが、人間は自己利益を犠牲にしてまで他者の利益を慮ったり、逆に、自分が損をしても他者の利益を侵害したりすることがある。これらの行動原理を単に羅列するのではなく、体系立った知識とすることが、前項で述べた社会科学における実験研究のもう一つの役割なのである。

 

3.1.5 社会科学と自然科学

自然科学の内容や意義が一般の人々に理解され受け入れられている程度に比べると、社会科学の中身や意義が理解されている程度は、いまだに小さいと言えるだろう。多くの人々にとっては、社会科学は「文系」という枠組で理解されており、そのなかでの人文学と社会科学との区別はほとんどなされていないのが実情である。

このような一般の理解は、学問の対象が人間や社会、文化にあるという点、つまり対象によって学問を区別するという観点からの理解である。しかし本節で述べてきたように、社会科学は人文学と、その対象ではなくその中身において大きく異なっている。対象は人文学と同じような人間や社会を扱っているが、学問の在り方においては、社会科学は自然科学と基本的には同じ観点を採用している。つまり、社会科学は科学一般と同様に、知識の積み重ねを可能とする方法で知識を生み出し蓄積することをめざしている。この点で、積み重ねを可能とする方法をとることにこだわらない人文学のあり方と根本的に違っている。

社会科学は人々の間の相互依存関係と、相互依存関係を通して生まれる行動の集積過程を明らかにすることを目的としている。そのため、一方では個々の人間の性質や行動原理を明らかにすることを目的とする心理学や認知科学、あるいは脳科学と密接に関連している。相互依存関係の網の目を通して集積されるべき個々の個人の行動がいかなる原理により生み出されているのかを知る必要があるからである。

また、相互依存関係を通しての行動の集積過程の分析は、社会科学の中核を構成しているが、必ずしも社会科学に独自の課題ではない。ネットワーク理論やゲーム理論を媒介として、社会科学は自然科学を含む科学の他の分野と結びついている。何億もの人間が作り出す社会で生まれる現象は、ひじょうに複雑な集積過程を経て生み出されており、単純な直線型の因果関係のみで記述できるものではない。しかしこのことは、人間社会の分析に科学の論理が通用しないことを意味するものではない。対象が複雑であればあるほど、着実に積み重ね可能な、成長してますます大きくなる巨人の肩に乗った新しい知識の探求を可能とする、科学的な理解を進める必要がある。自然科学の多くの分野に比べると、社会科学は人文学から独立してからまだ日が浅いが、自然科学が提供する新しい環境にうまく適応し、自分たち自身の社会を理解し調整する能力を人間が身につけるためには、社会科学の発展は不可欠である。

 

3.1.6 科学社会学の展開

1.3で述べたとおり、科学技術といった一つに性質の定まった対象があるわけではない。一つのものにみえる科学技術の内部にはダイナミックな構造が存在するからである。また1.3で述べたとおり、社会といった一つに性質の定まった対象があるわけではない。科学技術を含む社会の内部にも科学技術とは別のダイナミックな構造が存在するからである。したがって、科学技術と社会の関係を考えることは、変動する対象と、別種の変動する対象の関係を考えるという、相当に複雑な問題を扱うことになる。そのような複雑な問題を扱うには、いくつかの道具立てが必要であり、そのうちの社会学と関連のある道具立ての基本については1.3で述べた。

ここでは、科学社会学の展開に即し、対応する取り組みをもう少し立ち入って例示してみよう。たとえば、科学技術の内部にダイナミックな構造が存在する様子を調べる試みは、科学社会学において、二つの研究の流れのなかで行なわれてきた(1.3.4の課題の(1)に対応)。一つは、実際に観察される科学者の論文生産の様子と、科学者集団が普遍主義的な業績評価の規範によって運営されていると期待される論文生産の様子を照らし合わせ、科学者集団がどの程度、普遍主義的な業績評価の規範によって運営されているかをみるといった、科学者の外的な行動に焦点を合わせる研究の流れ。いま一つは、科学者の提示した仮説が他の科学者とのやりとりによってどう追試されるかをみるといった、科学者の知的生産過程の細部に焦点を合わせる研究の流れ。いずれの場合も、科学者集団は社会の他の部分から相対的に自律した部分社会であり、その内部の様子を詳しく調べれば科学者集団の特性がわかるという想定を、暗黙のうちに共有している。

科学技術を含む社会の内部にも科学や技術とは別のダイナミックな構造が存在する様子を調べる試みは、科学制度や科学組織が成立するまでの社会過程を調べるといった、科学社会学と科学の社会史にまたがる研究において行われてきた(1.3.4の課題の(2)に対応)。すなわち、科学者集団が社会の他の部分から相対的に自律した部分社会となり、科学者や技術者が雇用される機会がしだいに現われる過程を、特定の科学制度や科学組織を見本例に、社会のさまざまな集団の様子と関連づけて手厚く描く研究がそれである。古くは、近代科学革命の揺籃の地となった英国王立協会から、下っては、産業的応用のための科学研究の揺籃の地となったフランスのパスツール研究所に至るまで、科学制度や科学組織の成立する画期となるさまざまな見本例が取り上げられてきた。現在は、国際共同プロジェクトの実験室研究などに及んでいる。

そして、変動する科学技術と変動する社会の間の関係を調べる試みは、科学制度、科学組織と他の社会制度、社会組織とのやりとりを調べる試みとして、現在の科学社会学において最も盛んに研究されている(1.3.4の課題の(3)に対応)。たとえば、専門職業として成立した科学が技術と相俟って、社会の他のサブシステムと情報、資金、物財、人材をどのようにやりとりして、互いに存続したり、変化したり、衰退したりするかが、科学知識の社会学やアクター・ネットワーク理論といった複数の理論をふまえて研究されている。統一的な理論はまだ得られていないが、いずれの理論にせよ、科学技術の特定の問題領域と、それと一見無関係に思われる社会の要因との間の意外なつながりをいかにして見出し、説明するかが決め手となる。

ここでは、そのような変動する科学技術と変動する社会の間の関係に関わる問題群のうちで、とくに3.1.3に登場した行為の意図せざる結果と呼ばれる現象に対応する現象に注目し、科学技術と社会の界面の関係の一つの捉え方を示したい。

意図せざる結果とは、一般に、行為者の最初の意図と実現した結果との間にずれが生じる現象をさす。ずれが生じる原因として、いろいろな行為者どうしが互いに依存しあってふるまうこと(以下、相互依存と略記)、あるいは、そのような相互依存をとおして人々の集まりに特有の性質(以下、創発特性と略記)が生まれ、人々のふるまいにさまざまな反作用を及ぼすことなどが考えられる。科学技術と社会の関係において、このようなメカニズム、とくに創発特性に関わるような現象は少なくない。たとえば、発案者の意図は科学分野の活性化を目的としていて、そのために競争的資金が導入されたにもかかわらず、既存の分野が温存されたままばらまき行政をもたらすであるとか、一般に、意図は新たな科学技術分野の創出を目的として用意された組織や制度であるにもかかわらず、いったん制度や組織ができあがってしまうと、存続する必要性がなくなっていても制度や組織の生んだ既得権益のために久しく存続し、当初の目的にとって逆機能を及ぼしてしまうといった例は枚挙にいとまがない。

このような社会現象は、制度化の逆機能として知られている。すなわち、元来個人が特定の目的の実現のために制度をつくったにもかかわらず、いったん制度ができあがってしまうと、元来の目的とは別に、制度そのものを存続させるという特有の利害が生れ、元来の目的の実現をかえって阻害してしまう結果をもたらすことがあるという現象である。もとより、制度化は常にそのような元来の目的の実現を裏切ってしまうという逆機能を伴うわけではない。問題は、したがって、どのような場合に逆機能が生じ、どのような場合にそうではないのかという、条件を特定することである。この点については、一般的な解はまだ見出されていない。現在までのところ、特定の分野や特定の制度をそのまま存続させるという個別の利害がある時、公共性に訴えてその行為を正当化しようとする場合があるという経験則が知られているにとどまる。

 

3.1.7 科学技術と社会の界面で生じる問題

科学技術と社会の界面で生じる意図せざる結果の一つに、科学技術と社会の間の誤解やすれ違いという現象がある。たとえば、1.3で述べたように、科学者や技術者は専門家として問題ごとに個別に社会に対応しようとする各論志向が強いのに対し、社会のほうでは個別の問題を総合するとどのような判断が成り立つかを問う総論志向が強い。その結果、科学者や技術者の各論志向は社会の他の構成員にとっては、瑣末な専門主義に映ることになる。逆に、非専門家の総論志向は、当該分野の専門家である科学者や技術者にとっては、およそ性質の異なる事柄を混同して、社会の名のもとに根拠のない判断を下す危険な試みと映ることになる。

このような科学技術と社会の間の誤解やすれ違いを不必要に招かないようにするための方策の一つとして、社会に向けて科学リテラシーが説かれている。その際、念頭におかれている目的は、科学知を正確に理解している人の割合を向上させることである。すなわち、科学知は問に対する正解として(つまり、正答率を調べることに意味があるようなものとして)想定されている。科学知が科学研究によって生み出され、改訂されるといったダイナミックな(ときとして革命的な)過程は非科学者の眼から遠ざけられ、ブラック・ボックスに入れられている。他方、説明責任やガイドラインを正確に理解している科学者の割合を向上させるといった、科学者の社会リテラシーも説かれるようになった。そのような試みにおいて、今度は、社会リテラシーが問に対する正解として想定されている。社会リテラシーがさまざまな異質な利害関係者を含む社会によって作り出され、改訂されるといったダイナミックな過程は科学者の眼から遠ざけられ、ブラック・ボックスに入れられている。

社会の科学リテラシーは、非科学者に向けて説かれる。逆に、科学者の社会リテラシーは、科学者に向けて説かれる。このように、正反対の立場にある当事者を想定するにもかかわらず、科学知であれ、社会リテラシーであれ、生産過程のダイナミズムをブラック・ボックスに入れる点において、さして選ぶところがない。そうした視点からは、科学の正解を社会が学習し、社会の正解を科学が学習するといった相互学習の姿が導かれる。その姿は、まことに非の打ち所がない。ところが、そこで正解の存在があらかじめ想定されているとすると、科学と社会の関係を捉えそこなっている。1.3で述べたとおり、科学と社会の界面で発生する現実の問題では、何が正解であるかがあらかじめ与えられていない場合のほうが普通だからだ。あまつさえ、1.3で述べた科学と社会の界面に介在する非対称構造により、解は対症療法の方に偏りがちだ。あくまでも問題の原因を探求するといった解法は、見落とされがちである。

このことは、成果(科学の場合は科学知、社会の場合は社会的な意思決定の結果)を生産する過程に広く視野を開き、そのような広い視野のもとで科学技術と社会の関係を掘り下げ、捉えなおすことの重要性を示唆している。科学技術と社会の複雑な関係は、前記のとおり、意図せざる結果を思いもよらない形で生んでしまう可能性をはらむ。加えて、社会の内訳は一様ではない。国籍、人種、宗教、性別、階層、業界などといった境界により、異質な部分に分割されている(ちなみに、市民とは、そのような分割された状態をかろうじてまとめあげることを可能にする一種の仮構にほかならない)。

科学精神という言葉が想起させる普遍的な科学の姿と、社会における科学技術の姿が不可分につながっている様子は、科学技術と社会の関係についてのそれ自体が学問的な探究抜きには、けっして科学者の眼にも非科学者の眼にも詳らかにならない(科学と社会の関係をめぐって、もっぱら「倫理」と「コミュニケーション」が声高に叫ばれるという現在の状態は、両者のつながりをみないまま何事かを決めることになりかねない)。これまでみたとおり、科学技術と社会の界面で私たちの直面している問題は、何が正解であるか、にわかには判断しにくいことのほうが普通だからである。そのような科学技術と社会の界面の只中で、科学と社会の間の適正な関係をその都度模索し続けることが求められる。どうすればよいのだろうか。まずは、科学技術と社会の複雑な関係を、一つの社会現象と捉えることが必要である。そして、市民という仮構のもとでみえにくくなっている多種多様な利害関係者の登場する科学技術と社会の界面において、普遍的な判断を是とする科学と社会のさまざまな利害関係者との間にどのような歪みが発生し、社会全体の問題となる可能性をもつかを事前に察知することが肝要だ。そのためには、科学者に向けて社会の成員が多様な利害関係者であることへと視野を開き、多様な社会の成員に向けて科学が公共財であることへと視野を開くような、バランスのとれた思考の枠組が不可欠である。

次世代の科学者や技術者と次世代の社会の成員には、同僚とも、どの特定の利害関係者とももたれあうことのない、いわば科学技術と社会の間の構造的な緊張ときちんと向き合う、そうしたバランスのとれた思考枠組が、21世紀以降の社会でよく生き抜くための新たな重要な素養となる。ここで一端を示した科学社会学の枠組は、そのようなバランスのとれた思考に近づく一つの方法である。