3.2 現代社会における倫理

3.2.1 倫理(学)とは何か

倫理(学)とは何かを述べることは難しい。そこでまず、倫理としばしば混同される、「倫理に似ていて倫理でないもの」と対比することから始めることにしよう。

【法律】 倫理も法も「何をすべきか」、「何をしてはならないか」を定め、私たちに命じるように思われる。また、法も倫理と同じように、公共の福利を増大させ、社会的調和をもたらし、利害を調整するという社会的機能をもつ。そこで、この二つはしばしば混同される。しかし、倫理は、特定の法について、それは非道徳的であり、それゆえ許されないと判断することもありうる。たとえば、性差別を温存している法律、嫡出子と非嫡出子を差別している法律は倫理的に正しくない、と言える。しかし、だからといって、これらが法でなくなるわけではない。また、嘘をつくことは倫理的に正しくないが、法律で禁じられているわけではない(納税や裁判での証言といった特定のケースを除いては)。あるいは、若い女性が列車内で暴行されているのを知っていたにもかかわらず、乗客の誰一人として助けようとしなかったばかりか、車掌に知らせることすらしなかった。彼らは法律違反をしていないが、倫理的には正しくない。

【礼儀・エチケット】エチケットは行為の型にのみ関わるのに対して、倫理は内面にまで関わる。また、挨拶の仕方、食事の仕方など、何が礼儀にかなっているかは文化によって異なるものであり、どれがすぐれているということはない。しかし、多くの場合、倫理は文化の違い、地域の違いを超えた普遍的なものだと考えられている。(ただし、その地域の人々が尊重しているエチケットを故意に無視したり侮辱したりすることは倫理的にみても正当ではないことにもなるだろう)。

【宗教】宗教は倫理的行動を信仰をもつ者に求めることが多いので、倫理は宗教とも混同されがちである。しかし、倫理的な行動指針は、啓示、悟り、神の権威などにもとづく必要はない。倫理(学)の最大の特質はそれが信仰ではなく理性にもとづいているということにある。

ここに表れた「理性にもとづく」という点は重要である。私たちが、社会の一員としてどのように行動すべきか、どのような行動指針をもつべきか、よい生き方とは何か、という問題を考えたり、考えた結果を他者に説得したりする場合、二つの方法が考えられる。一つは情に訴えることであり、もう一つは理性に訴えることである。倫理は冷静に理性的に、そしてできるかぎり首尾一貫した仕方で、「どうすべきか」という問題に対処するための道具なのだと言える。

倫理学は、哲学的な理論というかたちで、私たちの倫理的判断の合理性と首尾一貫性を追求する。そのため、倫理学では、私たちがふだん何となく直観的に抱いている善し悪しの判断をあらためて反省の俎上に載せて、それを吟味し、少数の倫理学的原理を立て、個々の場面での倫理的判断をそこから導き出せるようなかたちで体系化しようとする。その際、倫理学的原理は次の要件を充たす必要があるとされている。

(1)規定性:倫理学的原理は、私たちの行為を導き、影響を及ぼすものでなければならない。

(2)普遍化可能性:倫理学的原理は、同じような状況におかれたすべての人に当てはまるものでなければならない。自分だけ例外といったようなことがあってはならないし、同じような状況では同じような行為を正しいものとしなければならない。これはさまざまな形で理論化されている。たとえば、カントの「同時に普遍的法則になることを汝が欲しうるような格率のみにしたがって行為せよ」という定言命法、ロールズの「無知のヴェール」、つまり、「道徳的原則を選ぶ人が自分がそれによって得をするのか損をするのかがわからない仮想的な状態で倫理的原則の選択がなされるべきである」という規則を挙げることができる。

(3)実践可能性:倫理学的原理は人間の限界を考慮に入れなくてはならない。そもそも誰にも従うことのできないようなことを命じてはならない。

 

3.2.2 学としての倫理学の構成とそれを学ぶ意義

哲学の一部門としての倫理学は二つの部門からなる。

(1)倫理学理論:私たちはいかに行為すべきか、よい生き方とは何か、私たちの倫理的判断の根拠となる原理は何かといったことを一般的、理論的に研究する部門。こうした研究をしようとすると、すぐに、「善」、「正しい」、「〜すべき」といった規範的概念をどのように定義すべきか、倫理的判断を述べている言明はいったい何を述べていることになるのか、それは真偽を割り当てることのできるものなのか、といった問いに悩まされることになる。こうした倫理学的概念や倫理学的言語の分析にあたる仕事も倫理学理論の一部であり、とくに「メタ倫理学」と呼ばれる。

(2)応用倫理学:アファーマティブ・アクション、妊娠中絶、安楽死、死刑、市民的不服従、表現の自由と差別表現、体罰、原爆投下、戦争、インフォームド・コンセント、コンピュータ犯罪、性差別、喫煙と禁煙、動物保護などなどの個別問題について、どうすべきかを倫理学的原理を手助けにしながら考えていく部門。

これら二つは車の両輪である。現実の問題に対する応用のない理論は空虚であるし、理論的視野のない意思決定は場当たり的だからだ。また、応用倫理学は既成の倫理学的原理を、単に個別のケースに当てはめたものではない。個別の問題を深く考える中から、倫理学的原理を手直しするということもあるからだ。

「学問としての倫理学を学ぶことによって人が倫理的になるか」と問われると、そういうこともあるかもしれないが、あまり期待できないと答えるほかないだろう。むしろ、倫理学を学ぶことは、自分が行っている倫理的判断を、より反省的で首尾一貫したものにすることに役立つ。このことを通じて、規範や価値に関する私たちの判断が、薄っぺらなドグマ、扇情的なアジテーション、狂信、お涙頂戴、恫喝、浅薄なニヒリズムに陥ることを防止してくれる。倫理学を学ぶことによって、人は倫理的にはならないかもしれないが、倫理について批判的思考ができるようにはなるだろう。

 

3.2.3 三つの主要な倫理学理論

これまでの哲学の歴史においては、おおよそ三つの倫理学理論が有力だった。

(1)功利主義:善い行為とは、より多くの人々により多くの幸福をもたらすような行為のことである、とする立場。ベンサムやJ. S.ミルに代表される。これは行為の善し悪しを判断するのに、その行為の動機ではなく、結果を重視するため、「帰結主義」的な倫理学理論である。

(2)義務論的倫理:功利主義が「幸福」を理論の基礎概念とするのに対し、「義務」あるいは「正しさ」を基礎概念とする倫理が義務論的倫理と言われる。これによると、善い行為とは義務にかなった行為のことである。たとえばカントは、私たちに具わった実践理性が立てた道徳法則に対する尊敬にもとづいて、その道徳法則が命じる義務を果たすためになされた行為が、道徳的行為であるとした。

(3)徳倫理:功利主義と義務論の両方を批判して乗り越えるために、1960年代にアメリカで、アリストテレスを復興して、「徳」の概念を基本に据えた倫理学理論を主張する人々が現われた。この立場によると、要するに善い行為とは、徳のある人がするであろうような行為のことである。功利主義と義務論がともに、行為そのもののもつ性質に依拠して、行為の善悪を考えようとするのに対し、徳倫理は、その行為がどのような人によってなされたかを考えようとする。また、どんな人が「徳ある人」なのかは時代や共同体によって変化するので、この立場は、倫理学的原理の普遍化可能性をやや弱めた立場だと言える。

たとえば、「人を殺してはいけない」というような判断は、おそらくこれらのどの理論によっても正しい判断として帰結するだろう。しかし、判断がずれることもある。功利主義では、人を救い、多くの人々に幸せをもたらすような嘘は、道徳的に正しいことになるだろう。しかし、義務論では、嘘をついてはならないという義務は、人々の幸せに優先するという結論が出されることもある。

 

3.2.4 科学技術と倫理の関係

科学技術が倫理学と関係してくる局面は大きく分けると二つある。一つは、科学技術に携わる人々の専門職倫理である。

(1)研究者倫理:一言でいえば、科学研究を進めるにあたって研究者はどのようなルールに服すべきか、といった問題を考える応用倫理の部門。

無関係な一般市民や環境に危害を及ぼす可能性のある研究をどのように規制するべきか。心理学や医学など人間を対象とする研究における被験者のインフォームド・コンセントをどのように確保するか。特に観察者であることを偽って行なわねばならないようなフィールドワーク、参与観察などは無条件に許されるのか。大学が企業の資金援助を受けるかわりに成果(特に特許)をその企業に独占させることは許されるか。こういった問題が典型例である。

(2)技術者倫理:技術に関わる専門家として、技術者はどの程度、そしてどのように、公衆の福利や環境の保全を考慮に入れなければならないか。技術者が、自分が働く企業で技術的にみて人々に危害を及ぼすおそれのある不正ないし間違いが行われていることを知った場合、内部告発をするべきか。どのような条件が充たされたら内部告発が許されるか。このような問題を考える。

これらの応用倫理的分野が注目されるようになってきたのは、科学技術に携わる人たちの行為が不特定多数の人々に甚大な影響を与えるようになってきたからである。とくに、技術者は開発した人工物を介して間接的に顔の見えない多くの人たちに影響を及ぼす。このため、個人が個人に対して直接およぼす行為にばかり着目してきたこれまでの倫理学理論を単に応用しただけでは、こうした問題をうまく考えられなくなってきたのである。

科学技術が倫理学と関係してくるもう一つの局面について述べよう。科学技術が人類の手に入れた最もすぐれた問題解決の手段であることは間違いない。しかし、そのことは私たちの抱える問題が、すべて科学技術によって解決できるということを意味しない。その理由は三つある。第1に、科学が問題に白黒をつけるのに時間がかかるのに対して、私たちが抱える問題は「待ったなし」であることが多い。科学的には完全に白黒のつかない状態のままで、私たちはどうすべきかを決めなくてはならない。第2に、科学技術の成果自体が稀少資源である。科学技術が提供する解決策の恩恵にあずかれる人とそうでない人が必ず存在する。たとえば、科学技術の粋を凝らして、巨大隕石の落下を生き延びるためのシェルターが作られたとして、誰がそこに優先的に入るべきなのか、という問題が残る。

第3に、問題解決の手段であるはずの科学技術が新たな倫理的問題を生み出してしまう。それは、新しい技術が私たちの行動の幅、選択肢を増やすからである。これまでやろうとしてもできなかったことをやれるようになると、そこにはルールの空白地帯が生じる。電子掲示板を使えるようになると、そこでの振る舞い方のルールはまだない。そこが自宅の茶の間に類する私的空間なのか、公的空間なのか、まだ決まっていない。これによって、さまざまな軋轢が生じる。遺伝子操作、出生前診断による障害をもつ胎児の人工妊娠中絶、延命技術の発展によってクローズアップされてきた安楽死などについて、私たちは「それをしてよいのか、いけないのか」と考えざるをえなくなる。

また、新しい技術は概念の混乱ももたらす。たとえば、ソフトウェアという新しい「作品」がこの世の中に生じると、プログラムを書くという作業が「生産」なのか「サービス」なのか、プログラムは「考え」の表現なのかそうでないのかといった問題が生じる。こうした概念的問題に決着がつかないと、ソフトウェア開発者の権利をどのような根拠で守ったらよいのかが決まらない。こうして、情報倫理学や生命倫理学などの「応用倫理学」が必要になる。倫理学は、役に立たない知的なゲームであるどころか、私たちの社会を生きやすい、望ましいものに保つための重要なシステムの一部なのである。